カーネルサンダースの名言
ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders、1890年9月9日 - 1980年12月16日)
アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。カーネル・サンダース(Colonel Sanders)として知られている「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍の階級(大佐)でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号(名誉大佐)である。日本では「カーネルおじさん」「ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。
下手な考え休むに似たり。失敗は投資と捉える
3歳で家出をして、農場の手伝いから職業人生をスタートしたのだが、ペンキ塗り→再び農場の手伝い→路面電車の車掌→軍隊入隊→鍛冶屋見習い→機関車の灰さらい→機関士→弁護士実習生→保線作業員→保険会社のセールスマン……と、これでもまだ26歳までの職歴だ。
そしてタイヤのセールスをしている時に出会った石油会社の支配人から勧められてガソリンスタンドを始めたのは30代後半、「自分の将来は自分で決めよう」と独立します。
努力が報われなくても、立ち止まらない
大成功をおさめたのは、40歳を過ぎてから。ガソリンスタンドのサービス・ステーションにレストランとモーテルを併設したところ、これが大ヒット。……が、レストランとモーテルがまさかの火事で全焼! 再建したものの戦争が起きたり、巨額の税金で実質破産したり、州議会議員に立候補するも落選したりで、気付けば65歳で無一文に。
ガソリンスタンドを利用する人たちのために物置を改造して6席だけの小さなレストラン「サンダース・カフェ」をコービンに造ったのは1930年6月。片腕の自慢の息子を亡くすという不幸を乗り越えながら、スタンドはサービスの良さで、カフェは味で評判となります。
新しいハイウエーの建設により車の流れが変って維持できなくなった店を手放し、負債を支払ったカーネルの手元にはいくらも残りませんでした。フライドチキンの調理法だけが唯一の財産。この時、65才。
窮地の時でも、常に現状を冷静に捉える
サンダースは母から教わった料理レシピに自信を持っていた。 だが、レストラン経営で成功を収めたものの、近くにハイウエーができたため破産の危機に追い込まれた。店舗を失った彼はクルマに圧力釜を積み込んで自慢のレシピ(一一種類のハーブとスパイス)を売り歩いた。やがて理解者ピート・ハーマンを見つけてフランチャイジーの契約を結んだ。やがて契約者は飛躍的に伸びた。
ゼロからやり直すリセット力
73才の時にはチェーンは600店を超えていました。ここで権利を譲渡し、その後は、自分の調理法が正しく行われ美味しいフライドチキンがきちんと提供されているか、各地の店舗をみて回ります。その旅は世界各地に及び、年間数十万キロにまでなりました
安易な道は効率的だし時間もかからない。困難な道は骨が折れるし時間もかかる。しかし、時計の針が進むにしたがって、容易だった道が困難になり、困難だった道が容易になるものだ。
何を始めるにしても、ゼロからのスタートではない。
失敗とは、再始動したり、新しいことを試したりするために与えられたチャンスだ。私はそう信じている。
失敗や無駄だと思われたことなどを含めて、今までの人生で学んできたことを、決して低く評価する必要はない。
人は60歳や65歳になると人生これで終わりと思うものだ。しかし、その人の年齢は、自分が感じた歳、思い込んだ歳で決まる。歳がいくつであろうと、やれる仕事はたくさんある。
人間は働きすぎてだめになるより、休みすぎてサビ付き、だめになる方がずっと多い。
人生は自分でつくるもの。遅いということはない。
成功しようと思ったら、はじめは楽せず、苦労することが必要だ。
他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である。
カーネル・サンダースの教え 人生は何度でも勝負できる! 中野 明 朝日新聞出版 |
ぼくのフライドチキンはおいしいよ―あのカーネルおじさんの、びっくり人生 (愛と希望のノンフィクション) 中尾 明,宮崎 耕平 PHP研究所 |
カーネル・サンダース―65歳から世界的企業を興した伝説の男 藤本 隆一 産能大学出版部 |
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