鈴木修の名言集
2014/03/18
鈴木修(すずき おさむ、1930年1月30日)
日本の実業家。自動車メーカースズキの代表取締役会長兼社長
岐阜県下呂町(現在の下呂市)生まれ。
旧姓は松田。
1953年3月中央大学法学部法律学科卒業。
中央相互銀行(現在の愛知銀行)入社。
1958年にスズキの2代目社長の鈴木俊三の娘婿となる。
同年4月にスズキ入社。
1963年11月に同社取締役就任。
1967年12月に同社常務取締役。
1973年11月に同社専務取締役。
1978年6月に同社代表取締役社長に就任。
2000年6月から代表取締役会長(CEO)を務める。
1975年の自動車排出ガス規制に対応が遅れたスズキを立て直し、社長就任直後に軽自動車アルト(1979年発売)を主導。
その後もワゴンR(1993年発売)の発売など軽自動車の商品力を高めた。
海外進出を積極的に行い、インドでのマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ・インディア)社への積極的支援等を通し、アジア成長国での販売を伸ばした。
一方、1981年には巨大自動車メーカーであるゼネラルモーターズ(GM)との業務提携を進め、さらに1990年代初めには欧州戦略拠点としてハンガリーへの工場進出を図るなどした結果、社長就任時には1700億円であった売上高を、2007年3月期では3兆1636億円になるまでスズキを成長させ、世界的メーカーとして認知される基礎を築いた。
1971年12月から日本自動車工業会理事、1981年3月から中部瓦斯取締役、1999年6月から静岡エフエム放送会長(2005年6月から相談役)に就任。
2000年4月に勲二等旭日重光章、1987年11月に藍綬褒章を受勲している。
国外ではハンガリー名誉総領事を務め、2007年3月には「自動車産業を通じてインドの発展に寄与した」としてインド国勲章(Padma Bhushan)が授与されている。
同じく婿養子経営者であった河合楽器製作所社長であった河合滋と親しかった。
後継者と目され2001年に経済産業省の経済産業政策局企業行動課長を辞めてスズキに入社していた娘婿小野浩孝取締役の健康問題に加え、前社長が体調不良を理由に勇退したため2008年12月11日付でスズキの代表取締役会長兼社長(CEO&COO)となり、兼務ではあるが8年ぶりに社長職に復帰した。
社長復帰後はGMとの提携解消に加え、新たにフォルクスワーゲンとの包括的提携を結ぶなど、スズキの新たな社外アライアンスの構築に進めている。
徹底した現場主義、現実主義者として知られる。
浜松市の市政にも深く関わり、前市長の北脇保之(1999年 - 2007年)、現市長の鈴木康友はいずれも衆議院議員選挙立候補時から強力に支援している。
その一方で浜松市の行財政改革推進審議会の会長(第2期)として市財政について将来の発展を見据えた厳しい指摘を行っている。
その経営手腕、歯に衣着せぬ言動などからマスコミの注目度も高く、「日本経済新聞」「日経ビジネス」などの新聞雑誌のほか、「カンブリア宮殿」など経済番組にも頻繁に登場している。
- 十年先のことを考えるなんて、昔でいえば百年先を考えるようなもの。会社のあるべき姿を描くと現実から大きく乖離する。最小限、何を今なすべきかを考えていくことだ。
- 工場にはカネが落ちている。
- 経営とは数字である。同じく仕事も数字である。人が動く、そしてものが動くと、数字は必ず動く。数字は結果であり、業績を表す。
- スズキは中小企業である。
- チャレンジするときは目標は高く。
- ビリだからチャレンジできた。
- 目標を持った上で行動しないと、意味がない。
- 不況を好機・試練ととらえ、成長のきっかけにする。
- “産業革命”が起きるんです。
- 走り続けないといけないんです。
- 今は“最悪”なんです。
- かつてない危機のいまこそ、トップは現場へ行かなくちゃならん。
- 現場の班長と一緒に1万円のコストを浮かした苦労話を聞く。そうしたら無駄遣いなんてとてもできない。
- ゼネラル・モーターズが鯨で、うちがメダカ?いやうちはメダカじゃなくて蚊ですよ。だってメダカは鯨にのみ込まれてしまうが、蚊であれば空高く舞い上がることができるのでのみ込まれない。
- トヨタ、ホンダは神様みたいなもの。
- どこのメーカーも行ってないところならインドで1位を取れると思った。
- 低コストでつくれる国からの輸入に加え、為替差益の面でも有利。現況を考えた場合、ひとつのモデルになり得る。
- 他人ではなく自分のコストを削れ。
- 満足したら終わり。常にチャレンジ、常に追いついていくこと。
- 慣れは怖い。外部の意見は大事。
- 小さい頃から野山を駆け回り、粗食に耐えたことが健康のもと。
- 不況だと臥せらずに、とにかく動け。
- 他のせいにせず、足元から節約を考えろ。
- 30年間右肩上がりで社内に安泰ムードを招いてしまった。
- (世界同時不況が)「何で分かったんですか」とよく聞かれるんですが、異変は論理的に説明できるもんじゃない。勘です。“勘ピューター”です。
- 「すごいね、すごいね、修さん」とか、おだてられはじめると、だんだん「なんか違うな」と思うんだな、俺は(笑)。
- 「国内の販売台数が2位になりました」と言われても「でも利益で見ればどうか」と考えます。「今期も他社が赤字でも黒字ですね」と言われても「たまたま」としか思えません。
- 危機は25年に1度やってくる。
- 2年前頃でしょうか、米国や欧州に行っても、どうもおかしいなぁと思う機会が増えた。自動車に限らず、誰が買っているのか、誰が売っているのか、顔が見えない商品が目立ってきたんですね。
- もともと、この数年間は、会社の存在を揺るがすような危機的な状況が来るのではないか、と身構えていました。だから少しだけ反応が早かったのかもしれません。
- 米国政府も日本政府も、経済の専門家も、まだまだ局地的な経済問題と考えていました。でも、なぜこの問題が局地で済むのか、その理由が私には分からなかった。分からないので危ないと思ったんですよ。
- スズキは創業以来、何度も倒産の危機に直面しました。
- それでも危機を乗り越えて成長してきたんですが、3度目の危機がいつか来る。2000年頃から起きるのではないか、と身構えていました。それがいま、遅れてやってきたんです。
- 今の幹部クラスは「減産」も「危機」も知らない。危機的な状況は私しか知らないんです。現役では。だから、何をすればいいのでしょうか、と現場ではあわててましたね。
- 皆さん、(世界同時不況が)米国が悪いとか足を引っ張っていると言いますが、日本の自動車産業は、この10年間、米国をはじめとする海外のお陰で成長したんです。
- この10年間で増えたクルマが次の需要につながらない“一度きりの幻”で終わるかもしれない、ということです。
- 自動車産業全体が需要と供給のバランスをなんとか取り戻すまでには5年はかかるのではないでしょうか。