押井 守の名言集
2014/03/18
押井 守(おしい まもる、1951年8月8日)
アニメや実写映画を中心に活動している日本の映画監督。その他にも、ゲームクリエイター、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、大学教授と活動は幅広い。
東京都大田区出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度より東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授に就任。
代表作に『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』など。アニメ映画『イノセンス』(カンヌ国際映画祭コンペ部門出品作品)により、日本SF大賞を受賞した。大賞でアニメ映画が対象となったのはこれが初めてであった(星雲賞では過去に例がある)。
個人事務所は、有限会社八八粍。事務所所在地は、東京都港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立された。
- プロスポーツっていうのは、感情移入することで闘争欲を満たすっていう形式なんだからさ
- 僕にとって、『虚構』は『現実』に比べて、何ら価値の劣るものではない
- 現実の戦争でさえもキャラクター性は依然として存在するんだよ
- 若さに値打ちなどないからこそ、人生は生きるに値するものなのだ
- 兵器とか鉄砲といったメカ、それから犬と女優さん、この2つがあれば僕の映画はつくれるんです
- 社会とつながっていたいという欲求は、人間が動物として持っている本能に起因するものである
- 剣とホイミだけで勝つというのが僕のルール(「ドラゴンクエスト」)
- 日本とアメリカじゃ監督としての勝利の仕方が違うから、勝ち負け以前にハリウッドでは自分の勝負にならない
- 日本のアニメーション文化は、僕のなかでは奇態の文化だという認識がある
- アニメってのは欲望がそのまま形になってる形式なんで、読者が望んでるものが何なのかってのがかなりダイレクトに出てる
- 実写でもアニメでも、「芝居」をすればするほど演技はダメになっていく
- 仮想現実なんて、いまある人間の感覚を固定化しないかぎり実現しない
- ロジックとして、勝つために特化してるものが勝つんだというのが、歴史の中にはある
- 身体というのは、社会的に獲得するものであって、もって生まれた物理的な肉体はどうでもいいんです
- 個人が生きるっていうことは、人類の未来まで責任持たなくていいっていうのが僕の立場だもん
- 違和感こそがアニメーションだと言ってもいい
- 人間が生きていく上で大切なのは「公正で適切な評価」ではないでしょうか
- 自分が全然想像もしていなかった見方をされると、うれしいですね
- 2年も3年もかけてつくったものでも、「アハハ!」と笑って一瞬で終わるのはあまりにも虚しいと思った
- 人が生きるのは辛いことです。それは大人も子どもも変わらない
- ディテールの集積として一つの世界を作らなくちゃいけないというのが僕の映画作りの基本的考え方なんです
- 「パトレイバー2」の核になっている台詞は、実はある論文をダイアログに組み立て直しただけだ
- 街から野良犬やカラスなど異分子を排除しようという、見えざる意思は露骨に感じますよ
- 僕が作品の制作にあたって、監督として第一に考えるのは「この作品の寿命はどれくらいあるのか」ということだ
- 「天使のたまご」という作品を作った頃、しばらく仕事のない時期があった
- 情報量を自在にコントロールして作り、成立させていくものが映画というものだから
- 僕は映画祭というものが、あまり好きではない。本質的に「映画を愛する人々のお祭り」というのはやっぱりちょっとどうかと思ってしまう
- 見終わって、何の発見もない映画は駄作だ
- 僕の場合、スタートからオリジナルでやったものは売れないというジンクスがある
- ノンフィクション風の体裁を取らないと、成立しないキャラクターというものがあるんです
- 映画の仕事っていうのは非常に扇情的なもの、匂い立つようなものが必要なんですよ。色気といってもいい
- 映画も全部見てるわけじゃないでしょう。見たい部分だけ見てるはず見せるべきもの以外の膨大な情報が載っているからこそね、奥行きがある世界が実現できるんです
- この社会では他人の人生と関わり、他人の人生を背負い込むことぐらいに楽しいことはない
- 地に足のついてない身体、温度を感じない身体とか身体をマイナスに表現することが可能なんじゃないか
- 少なくても映画というのは、嫌でもなんでも、自分が生きてる「時代」が必ず入り込んでくる
- 僕は甲冑が大好き
- 映画って、いろんなものの寄せ集めなんですよ。引用を編集するって感じなんです
- この世は模倣されたモノたちで満ち溢れている
- 僕が、見る映画を決める基準はごく大雑把に言ってSF濃度、銃器、犬、そして女優さんという順番
- 映画監督という商売は、天才には勤まらないと僕は思う
- アニメ業界は監督なんてものになんの幻想ももっていない世界だ
- ない金はたいて絶対勝たないとっていう勝負は負けるんだよ
- あふれかえるようなものの中から選択させるってこともまた演出の使命だろうと
- せいろ二段重ねが好物。5分ぐらいで食べ終わって、サッと帰っちゃう
- 「新しい絵」「自分が観たい絵」を手に入れようとする限りは、必然的に「新しい方法論」が必要になる
- 僕はあまり(というかまったく)映画を見に出かけません
- 相手がわかる比喩で語られていないということは、自分のものになっていない証拠だ
- 言葉として見つからない部分を映画という形で作品にする
- 僕にとって「自分のスタイル」とは、結果的に残るものに他ならない
- 日本のアニメーションに登場するロボットにはテクノロジーの裏づけはまるでない
- 「オンリー・ユー」は映画になっていない。ただ絵がでかくて、時間が長いテレビアニメに過ぎなかった
- アニメーターって基本的には感覚を再現する仕事なんだよね
- 100人いたら100とおりの見方があるような映画にしたほうが実際には映画も豊かになるはず
- 戦闘のシーンと濡れ場が同じだという話はひじょうによくわかる
- 実写は、みんなが思っている以上にすごく不自由な世界だ
- 見た映画と、語られたその映画は別物になってしまう
- 「攻殻機動隊」はめったに思い出さないが、「御先祖様万々歳!」は、いまでも引っ張り出してきて、ひとりで笑っていたりする
- 結果は不条理そのもの
- 拳銃ないし鈍器をどう扱うかには、監督の映画観や世界観が如実に表れてしまう
- 僕がなんでジーンズをはいてるかといえば、朝何を着るか考えなくて済むから
- アニメーションの制作システムは、実写の現場主義よりも優位性があると思ってきた
- 既存のアニメ作品が僕の作品の参考になったことは一度もない
- 映画という形式において、映像技術を伝えるということは、情報そのものよりも「情報の落差」を伝えることだ
- 僕の映画に秘められた意味、真相?そんなものは……ない
- シューティングゲームはケーススタディと腕が伴った人間が勝つ
- 僕は人間は自分自身が生み出した言葉やイメージの地平を現実には超えられないんじゃないか、と思ってる
- 僕は自分の好きな種類の言葉、自分の胸届きやすい種類の言葉を常に収集している
- やりたいことがないから、いくら自由とは言っても、その自由にはまったく何の意味もない
- 犬好きの戯言と言われそうだが、ペットを飼うことは健全な精神を育むことにもつながる
- 映画監督は、映画を語るべきではない
- 長編アニメーションの鑑賞は90分から100分程度が限界じゃないかと思っている
- 日本のアニメ雑誌、映画雑誌、デジタル雑誌の取材は正直、それぞれの業界の実体に届いていない
- 変わり者とか変人とか呼ばれている人間に席を用意するのが、進化した社会の絶対条件なんだよ
- ディテールで作るっていうことは、あるものを拡大しても全体を俯瞰しても、全体的なことが見えてこないといけない
- 映画やアニメは所詮、声楽や舞踏のような直接的な身体表現じゃないということ。でも、映像は映像なりにやれることはきっとあるだろう
- 劇映画の台詞って退屈ですよね。ほとんどが説明やなりゆきで。それが嫌で映画をディテールの一部にしたかった
- アニメは準備して形になるまでの途中経過がない。すべては演出家の頭の中にある
- ギャグって実は非常に難しいんです。言っちゃなんですけど、ギャグやドタバタをやれる人って今、めったにいませんよ
- 立ったままご飯を食べるってね、おおげさに言うと、世界が変わって見えるんです
- “勝つため”ということ自体が自己目的化している場合は勝敗論的に非常に有利になる
- 映画を製作するという作業は、言ってしまえば自分が観てきた膨大な映画の記憶を検索して組み直す作業だ
- 僕の映画はだいたいいつも最初に結論を描いてますよ。ほぼ例外なしに
- 損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は、損得でしか動けないものだ
- 映画そのものに力があれば、作品は生き残る。今はヒットしなくても、歴史の審判に僕の作品は耐えられる
- 僕は“監督神話”みたいなものは信用していないし、興味もない
- アニメは映画そのものの劇画というか、言ってみれば「映画ごっこ」だと思っている
- 自分がスランプで仕事をできなかった時期というものはない