ジャン=リュック・ゴダールの名言集

2014/03/18


jann=ryukku・goda-ru

ジャン=リュック・ゴダール(”Jean-Luc Godard”、1930年12月3日)

フランス・スイスの映画監督。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。欧州のみならず世界レベルで最も重要な映画作家の1人

1959年 映画『勝手にしやがれ』で長編映画デビュー。
1961年 長編第2作の『小さな兵隊』に主演女優として出演したアンナ・カリーナと結婚。
1964年 アンナ・カリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」設立。
1965年 『気狂いピエロ』発表。
1965年 アンナ・カリーナと離婚。
1967年 『中国女』に出演したアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚。
1968年 カンヌ映画祭に、映画監督フランソワ・トリュフォー、クロード・ルルーシュ、ルイ・マルらと共に乗りこみ映画祭を中止に追い込む。その後、商業映画からの決別を宣言。ジャン=ピエール・ゴラン等と共に映画製作集団「ジガ・ヴェルトフ」を結成し活動の主軸とした。

  • 労働者がフォードの車体のボルトを締めようとするときであれ、自分が愛している女の肩を愛撫しようとするときであれ、あるいはまた、小切手を手にとろうとするときであれ、それらのアイディアはどれもみな、運動に属しているのです。
  • プロデューサーというのは概して…どんなプロデューサーであろうと、人物としては監督よりもおもしろいものです。なぜなら、プロデューサーは、たとえ大して重要な問題ではないにしても、より実践的でより現実的な問題をかかえているからです。
  • 事実、人々がそうしたものを必要とするときもあります。私もまた、すべての人と同様、アラン・レネの映画ではなく、アラン・ドロンの映画を見にゆくことを必要としています。そしてそこには、真実のなにかがあります。
  • 私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました。
  • スコセッシやデ・パーマや有名な監督はみな、私と同じくらい途方に暮れています。われわれは自分につくることができる映画をつくっていません。私はよりずっとできのいい映画をつくることができるはずだし、マーティンにもフランシスにもできるはずです。
  • ヒッチコックの映画の最初のカットを見れば、観客にはすぐにそれがヒッチコックの映画だということがわかる。偉大な画家たちにおいてと同様、彼においてはただちに絵が形づくられ、しかもそれらの絵はたえず互いにつながりあっていく。
  • ヒッチコックは女優を、植物を撮影するように撮影した。もっとも、薔薇とチューリップの間に探偵もののシナリオを配置してはいた。
  • それがいい台詞じゃないことはよくわかってるんだ。でも、それがいい台詞じゃないというそのことが、ぼくがいい台詞を見つける手助けをしてくれるのさ。だから少なくとも、君がどうしようもなくばかげた台詞を書こうとして四苦八苦するそのことに対して、ギャラを払わせてもらうよ。
  • ヒッチコックはヒトラーのように《俺はおまえたちを皆殺しにしてやる》などと言うことによってじゃなく、『汚名』でのように、ボルドー産ワインの瓶の列を見せることによって千人の人を震えあがらせることができた唯一の人だ。
  • エイゼンシュテインは、編集というものを発見したつもりでいたのですが、実際はアングルというものを発見したのです…カメラをどこに置くべきかを知ったのです。
  • 観客にとって映画がおもしろいのは、映画ではしばしば、金がたっぷりつかわれるからです。そうでなければ、観客は十ドルなり五ドルなりの金をつかって映画を見たりはしないはずです。
  • ブニュエルはむしろ、一時期の私と同様、完全にカメラの背後にいて、観客とどんな関係も結ぼうとしない人たちの部類に入る人です。もっとも、この場合の観客のなかには、いわゆる《教養のある》観客とか映画狂とかは含まれません。
  • 私にとっては予告篇というのは、ほとんど完全な一本の映画です。私は本篇をつくるよりはむしろ、予告篇をつくりたいくらいです。私がいま予告篇をつくるとすれば、四、五時間の長さのものになるはずです。
  • 人々は次第に、私に金を出さないようになっていたのです。私はこの映画を、十万ドルの予算でつくりはじめました。私はこの額を超過したことは一度もありません。そのかわり、自分の自由は確保していました。
  • 今つくられるべき真におもしろい映画は、『極北の怪異』と『恋人のいる時間』をまぜあわせたような映画でしょう。つまり、ある恋する女の仕種とあるエスキモーの仕種はどの点で互いに似ているのかということを示そうとするような映画でしょう。
  • 私がつくった映画の本数はそれほど多くはありません。ところが私は今、自分でもびっくりするのですが、自分の映画を混同しはじめている始末です。
  • ヌーヴェル・ヴァーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者が互いに映画について語りあっていたからです。
  • そして、映画づくりの外でではなく、映画をつくりながら考えようとしました。なぜなら、そうしようとはしないで紙に書いたりすると、それはむしろ小説になってしまうからです。そしてその小説が、あとで映画としてコピーされるわけです。
  • その十分間の持続を語るためのあるカットを撮ってみてはじめて、人物にこれこれのことを言わせようとか、次はお客よりもむしろ売春婦の方を撮ろうとかといったアイディアがうかんでくるものなのです。
  • スターというのがしばしばきわめて興味深いものであるのは、スターが、癌と同様、一種の奇形だからです。スターが誕生するということは、ある人間のきわめて単純な人格が急に増殖しはじめ、ばかでかいものになるということなのです。
  • 演出は、想像力と権力が何人かの人によって共有されている場合はうまくいくのですが、そうでない場合はうまくいきません。
  • スイスという国は、アメリカの正反対のような国です。世界中の人が自分の金を預けにくるという、奇妙な国です。スイスの軍隊というのは、もっぱら、世界中の金を守るためのものなのです。
  • 私はたとえば、スチュワーデスの制服を選ぶための討議を撮影したいと考えていました。モザンビークは国際線をひとつもっているので、そのうちにこの問題が提起されるだろうと考えていました。ところが、それはすでに決定されていたのです。
  • それに私は、自分の生まれを通して知っていることだけをとりあげようと心がけました。つまり、良家の息子や娘たちに、バカンスの期間中にマルクス・レーニン主義ごっこをさせようとしたわけです。
  • ヒッチコックは私とは別の国の別の社会に属し、私のとは違った問題をかかえている人ですが、でも私にとっては、私にどうにかこうにかできることをなんなくやってのけ、しかもそれを、次第に上手に、申し分のないやり方でやってのけつつある人です。
  • まず、一度に二百人の人の興味をひくことのできる映像と音とテクストというのはどのようなものなのかということを考えるべきです。最初から数百万人の人の興味をひこうと考えると、行きあたりばったりに進むことになるのです。
  • 私は映画をつくっていたときは、はじめのうちは、だれかがこの映画を見るということは考えていませんでした。それに私が思うに、映画をつくっている人たちの四分の三も、このことを考えていないはずです。
  • そうした映画では、よく言われるように、ひとは自分の腹のなかにあるものをぶちまけてしまわずにはおれなくなります。でも腹のなかにあるものというのは、かならずしも、ぶちまけるべきものじゃありません。
  • 私が思うに、映画は以前は、今よりもいくらか現実主義的なやり方でつくられていました。人物たちはコーヒーを飲んだりしながら、平気で、いきなり《神は存在する》などといったことを口ばしったものです。
  • 私はむしろ、ゆで卵をつくることも含め、すべてが政治だと考えています。なぜなら、ゆで卵をつくるためには、ある一定の金を用意しなければならないし、ある一定のやり方を学ばなければならないからです。
  • 映画のごく一部分を映写する必要があります。したがって、まずそれをさがし出さなければなりません。それにまた、映画のそのごく一部分をさがすという行為を映写する必要もあります。
  • ところが映画批評というのは、言葉について語る言葉なのです。しかも厄介なことに、その言葉は映像について語ろうとします。映像は言葉で語られるようにはできていないのです。
  • そこにはしばしば、相手の立場の尊重とかヒエラルキーとか専門分野とかいうものがあって…それぞれが自分の持ち場にとどまるべきだとかされていて、それらが、私とカメラマンの間のそうした対話を不可能にしたのです。
  • 《その十八人というのはいったいどういう人たちなんだろう?ぼくはどうしてもその人たちのことが知りたい!ぼくはこの映画を見にきたその十八人の人にどうしても会ってみたい。あるいは、その人たちの写真を見てみたい》
  • 私が観客のことを考えるようになったのは、たとえば『カラビニエ』の場合のように、自分がつくった映画が興行的に大失敗におわったとき…とてつもない失敗におわったときです。『カラビニエ』は、二週間で十八人の観客しか入らなかったのです!
  • その小さな町で私が映画をつくるとき、私には、私のことをよく知っている豚肉屋の主人がその映画を見にゆくことがわかっています。そしてこのことが、私がテレビととり組む理由なのです。
  • 事実、マルローが美術史の分野に新しさをもたらし、それが大きな成功をおさめたのは、ただ単に、彼が多くの写真をつかったからです。人々には少なくとも、そこで語られている対象がどういうものか見ることができたのです。
  • 私はごくわずかの人しか知りません。それに私は、知りあったごくわずかの人たちとも、すぐに喧嘩してしまいます。というのも、私にはなかなか、自分が求める人を見つけることができないからです。
  • 彼女はあとでカンカンに怒っていました。わざと醜く撮られたと思ったからです…この映画をつくることによって、私が彼女にきわめて大きな打撃を与えたと思ったからです。そしてそれが、われわれの破局の発端になりました。
  • 新聞記者もやはり、たびたび取材に出かけます。だから、しょっちゅう写真を撮っています。でもかれらも、写真を定期的に撮りつづけなければ、ピントを合わすことさえできなくなります。映画についても同じなのです。
  • 私はどうかと言えば、私が自分には映画をつくることができると考えるのは正当です。なぜなら、私はしょっちゅう映画をつくっているからです。
  • 「君の新作を見たよ。でもあの映画には、欠けているカットがひとつある。ぼくは君が撮影期間中にジャクリーン・ビセットの腕をとってパリのレストランに入るのを見たけど、そういうカットをあの映画に入れるべきだよ」
  • 映画をつくろうとすると、映画を職業にしている人やそのほかの人たちが《物語を語る》と呼んでいることをするよう強制されるのですが、私はこのことにいつも窮屈な思いをさせられてきました。
  • 私は今になって気づいたのですが、ヨーロッパ人は物語を語るすべを知りません。そしてアメリカ人の力というのは、しょっちゅう物語を語っているというところにあります。
  • 私がシナリオの教授なる人物をつかまえたいと思うのは、シナリオの講義というのがどういうものかを大いに知りたいと思っているからです…知りたくてうずうずしているからです。私はいつも自分に、《それがわかれば、蛇の首をおさえることができるぞ》と言い聞かせているのです。
  • 私がいま思うに、人々にとっては互いになんの関係もないようなこの四本の映画をいきなりひとまとめにして見ることによって、映画を映画として見ることができるようになります。
  • たとえばマリリン・モンローのような人は、極端に周縁的な場所にいた人です。あれは極端に疎外されていた人で、しかもたぶん、食べるものもあまり手にすることができない、ごくふつうのモザンビーク人よりもずっと不幸だった人です。
  • 自分をやけどさせたり自分を破壊したりするはずのなにかに引きよせられるような場合は、建設するすべと自分を破壊させないようにするすべを同時に学ぶ必要があるのです。
  • 映画をつくるやり方には二つのやり方があるということがよくわかります。ひとつは私がとっているやり方です。私は音楽を演奏することよりはむしろ、映画をつくることを必要としています。それというのも、私は音痴だからです。
  • 売春婦を買うべきか買わざるべきかという問題にも頭を悩ましていて…ときどき、自分の過去とか自分のモラルとかいったものを考えては、恥ずかしさを感じたりしていました…
  • 映画の歴史は、社会のなかで生きながら、ある時期、自分を表現したり、その表現を感化したり、あるいはまた、自分が受けた感化をなんらかのやり方で表現したりする男たちや女たちによってつくられたのです。
  • 反対に、テレビにはあまりに多くの映像があります。テレビは映像をもっとへらすべきです。そうすれば、テレビは役に立つものになるはずです。
  • それに私は、私の娘が私がつくった映画を五分間見るのにも我慢できなかったり、そのくせ、コマーシャルとかアメリカのシリーズものなら何時間でも見ていたりするのを見ると、なにかを考えさせられます。
  • そこで私はこう考えることになります。「ぼくにはたぶん、一ドルで売るような写真ならつくれるだろう。でもその場合は、それを買ってくれる人を、毎月千人見つけなきゃならない」というわけです。
  • テレビで流される映画については、人々はすでにずっと以前から、これは複製なんだとは少しも考えていない。そして今ではあれが映画になってしまったわけだ。映画狂にとってさえもそうだ。
  • たぶん、ブレッソンは一時期見失っていたなにかをまた見つけ出したんだ。彼は同じ場所に長くとどまりすぎていた。ひとは自分が存在する条件と無関係に、世界と無関係に生きているわけじゃない。
  • ぼくは自分をむしろ、自分の小さな農地を耕す小さな農夫にたとえたい。そしてその農夫は、自分はどの部分を保持し、どの部分を国家に売り渡さざるをえなくなるのかを見ようとしているわけだ。
  • ひとは映画をつくることによって、より大きいスケールで進行していて、見てとるにはあまりに茫漠としているものを、小さなスケールで見ることができる。
  • ぼくは映画をつくる小さな会社の経営者であるわけで、だからいつも受注控え帳を手にしていなければならない。
  • ひとことで言えば、このカメラではピントを合わせることができないわけで、だからぼくとしては、このカメラではピントを合わせることができないという事実にピントを合わせることができればそれでいいといったところだ。
  • 私が自分は観客の近くにいると感じるのは、もっぱら、私が映画を自分自身のために必要としているからです。そうでなければ、私は映画をつくったりはしないはずです。
  • 形容詞というのは状況を判断するためのものじゃありません。でもわれわれは今、形容詞によってものごとが定義される時代にいます。
  • モザンビークは二、三年前に独立したばかりの国です。そこには小さな映画学院があって、われわれはそこで、モザンビークにテレビが出現する以前に、そのテレビについていくつかのことを研究しようとしています。
  • 物語を語るというこの問題は、私にとっては深刻な問題です。というのも、映画をつくろうとすると…映画をつくるための金を見つけようとすると、連中は必ず、《その映画には物語があるかい?》と聞いてくるからです。
  • 私には台本というのは大いに危険なものに思えます。それに台本が連中に安心感を与えるのは、あとで予算が超過しそうになったりしたときに、台本をたてにして、演出家に約束を守らせることができるからです。
  • 私ははじめから、自分の映画を断片としてつくったわけです。でもそれによって、私は大いに損をしました。なぜなら、―商業的観点から考えれば―人々はそうした映画のなかにはなかなか入りこむことができないからです。
  • 私には、三、四人の人のためにつくられるべき映画というものもあると思えるからです。もっとも、映画を三、四人の人のためにつくろうとすると、その三、四人の人さえ獲得できないということがあります。
  • 私には教育がありません。私は映画をつくりながら、そのつど、自分で自分をつくりあげてきました。私が学校に通ったのは、両親が私に通わせたからです。
  • 私は軍隊というものにはいつも、ぞっとさせられると同時に魅惑されてもいました。軍隊には、従わなければならない命令がたくさんあるし、市民生活のいたるところで見かけるような制服もあるからです。
  • 私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと…おもしろいことと思ってきました。
  • ありきたりの言い方だが、《映画とは人生だ》と言うこともできる。でも一緒に暮らしている女たちは、この点でぼくを非難している。彼女たちはこう言うんだ。《あなたは人生を生きていない。映画なんかやめてしまいなさいよ》と。
  • だから私がこの映画でしようとしたのは、映画のなかで《アルジェリア》という言葉を発するということ、しかもそれを、自分が今いる場所で、自分自身のやり方で発するということです。
  • そして映画は、同時に人生でもあるんだ。だからわれわれが人生を映画に撮ると、人々はわれわれに、これはもはや映画ではない、金を払ってまでしてつづけて二度も人生を見たくないはないなどと言ってくるわけだ。
  • ぼくは最近、自分の映像史についてこう考えるようになった。それは、ひとは決してまず最初に映像を見ようとはしないということ、ひとがまずはじめに見るのは二番目に来るもの、テキストの方だということだ。
  • かれらは自分にとって大きすぎる映画をつくっているか小さすぎる映画をつくっているかのどちらかなのです。自分の創作活動との間にノーマルな関係を結んでいないわけです。
  • ぼくが思うのに、バルトはモードに本当に興味をもっているわけじゃない。モードそれ自体を好きなわけじゃなく、すでに死んだ言語としての、したがって解読可能な言語としてのモードが好きなだけなんだ。
  • ぼくは映画においてただひとつのことを発見しただけだ。それは、それぞれ違う動きをもった二つのカットをスムーズにつなぐにはどうすればいいのか、あるいはより難しい場合として、動きのあるカットを動きのないカットにスムーズにつなぐにはどうすればいいのかということだ。
  • 俳優というのは存在しないんだ。とは言っても、すぐれた職業俳優などというものはありえないというブレッソンの考えには少しも同意することができない。
  • ぼくと俳優の関係には大いにいびつなところがある。だいいち、ぼくはかれらに話しかけようとはしない。かれらと話すのが難しいのは、かれらは病気の子供のようなもので、たえず安心させてやらなければならないからだ。
  • われわれは世界を、現実を、われわれ自身を分析するという刑を宣告されているわけだが、でも画家や音楽家はこうした刑を宣告されていない。
  • ジョイスは映画には関心をもっていなかった。それでも、サイレント映画はジョイスと同じくらい遠くまで行っていたんだ。われわれはサイレント映画が獲得したものの大部分を失ってしまった。
  • 夜のパリを車で走っているときに目にするものはなにかと言えば、赤、青、黄色の信号だ。ぼくはこれらの要素を、かならずしも現実にあるものとして配置しようとはせずに提示しようとした。
  • ぼくに必要なのはできのわるいストラヴィンスキーなんだ。というのも、かりにできのいいストラヴィンスキーをつかうとすれば、ぼくが撮ったものはどれもみな、なんの役にも立たなくなってしまうからだ。
  • ぼくがブルジョワ的な物語を撮ることから始めたのは、ブルジョアの出だからだ。かりに農家の出だとすれば、たぶん違ったものを撮っていたはずだ。
  • われわれはここでもまた、例のジャンル分けなるものに出くわすことになる。つまり、一本の映画は詩的な映画であったり心理的な映画であったり悲劇的な映画であったりすることはできても、ただ単に一本の映画として存在する権利はないという考え方と出くわす。
  • いつもぼくの頭にとりついていて、撮影中はできるだけ考えないようにしている問題がひとつあるんだが、それは《なぜほかのカットではなくこのカットを撮るのか?》というものだ。
  • 映画づくりで厄介なのは、映画の長さをおしつけられるという点だ。そして、かりにぼくのどの映画でもいくらかの自由さが見られるとすれば、それはぼくが長さのことは少しも考えていないからだ。
  • サイレント映画はトーキー映画よりも革命的なものだったんだ。それに当時の人々はサイレント映画を、ものを語るやり方としてはずっと抽象的なものだったにもかかわらず、よりよく理解していた。
  • 大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。
  • アンナとベルモンドはそれぞれ、行動的な生活と瞑想的な生活を表象している。そしてこれは、この二つを対比させるためにしたことだ。この映画ではこれらは少しも分析されておらず、だから分析的な台詞や場面はひとつももちこまれていない。
  • ぼくにはひとは自分がしているのはばかげたことだとかつまらないことだとかと感じながら、それでもなおそれをしつづけることができるとは思えない。ヴァディムは自分がなにをしているのかをわきまえていないはずだ。
  • ヌーヴェル・ヴァーグの誠実さは、自分がよく知らないことについて下手に語るよりはむしろ、自分が知っていることについて上手に語ろうとするところにあった。それにまた、自分が知っていることのすべてを混ぜあわせようとするところにあった。
  • ぼくにとっては映画を撮っているときと撮っていないときという、互いに異なった二つの人生があるわけじゃない。映画を撮るというのは人生の一部をなすことであるべきだし、ごく自然でごくふつうのことであるべきなんだ。
  • われわれ以前にフランスという国を見ようとしていた唯一の人はベッケルだ。そして彼は、高級婦人服デザイナーとかギャングとかを撮ることによってそれに成功した。それに対してほかの連中は、現実を提示したためしがない。
  • ぼくはまだ、自分の職業に愛着を感じていないプロデューサーには一度も会ったことがない。映画館主と比べれば、最もたちの悪いプロデューサーでさえも詩人と言えるほどだ。
  • この映画の全体的構想のもとになったのは、悲劇とはクロースアップでとらえられた人生であり、喜劇とはロングショットでとらえられた人生であるというチャップリンの言葉だ。ぼくはこう考えたんだ。クロースアップでとらえられた喜劇を撮ってやろう。
  • コクトーの言葉によれば、映画は《死神が仕事をしているところをとらえる》唯一の芸術だ。撮影されている人はみな、そのとき年をとっている最中であり、いずれは死ぬことになる。だからそのとき、死神が仕事をしている瞬間が撮影されていることになるわけだ。
  • 人々はヌーヴェル・ヴァーグに対し、ベッドのなかにいる人たちしか描こうとしないという非難をあびせている、それならぼくは、政治にかかわっていて寝る暇もないような人たちを描いてやろう。
  • 即興的に演出するというのは骨が折れる。ぼくはいつも自分にこう言い聞かせていた。これが最後だ!もうこれ以上はつづけられない!明日の朝はどうすればいいのかと考えながら眠りにつくのはもううんざりだ、と。
  • ぼくらが手持ちカメラをつかったのは、ただ単に事を迅速に運ぶためだ。ふつうつかわれているような機材をつかう余裕がなかったし、かりにつかっていたとすれば、撮影にあと三週間はかかっていたはずだ。でもこれもまた、規則になったりすべきじゃない。
  • 〈カイエ〉にはつねに、われわれとほかの連中の違いを示すものとして、断固として称賛的な批評を書くという原則があった。その映画が好きだからこそ、その映画について語るというわけだ。かりに嫌いであれば、あえてこきおろしたりはしないわけだ。
  • テレビ局はどこも後れていて、当時もまだゴダールの文化的番組に金を出そうとしたものなんだ。でもそのあと、それを突きかえしてきた。事実、どのチャンネルも、ぼくに注文した映画を放送しようとはしなかった。
  • 闘士たちがなにで生計を立てていたのかは知らない。何人かはきわめて貧しい暮らしをしていた。でもたいていは、かれらにはみな、うまくいかなくなったときにたよることのできるパパとママがいた。クリスマスにはぼくはよりいっそう孤独になるはめになった。
  • ぼくと一緒に仕事をした人たちはみな、父親を必要とする人たちだったんだ。同様に、ぼくのなかにはしばらく前から、女優を自分の娘とみなし、家族として、映画における家族として一緒になにかをつくりたいという欲望があった。でもこれもまた誤りだった。
  • ぼくにはときどき、トリュフォーがしたように、ぼくも自分の著作権をより上手に守っていれば、今ごろはよりいくらか金の余裕があったはずだと考えることがある。
  • ぼくは楽天的であろうとするときは、自分はまだ映画の二十五歳にすぎないと考えることにしている。二十五歳だということは青年だということだ。守るべきなのはこうした考え方なんだ。
  • 彼(ジャン=ピエール・メルヴィル)とはみっともないようなやり方で女のことを話題にすることができた。しかも彼は、ぼくが女の子を必要としていれば、ぼくのために見つけてきてくれたりした。彼にとってはそうしたことはタブーじゃなかったんだ。
  • ぼくはこれまでずっと、こういう原則を守ってきた。それは、映画を一本つくるとすぐに、その映画のプロデューサーに―そのプロデューサーが不満そうでなければ―、その映画の半分の予算で映画をもう一本つくらせてくれともちかけるというものだ。
  • 絵画にはかつて、模写の伝統というものがあった。画家たちはイタリアに出かけていき、巨匠たちの絵をかき写したりしながら自分自身の絵をかいていた。そしてわれわれはどうかと言えば、われわれは映画を、芸術の歴史のなかのしかるべき場所に置きなおしたんだ。
  • ぼくは一人の女優と一緒に仕事をし、その女優を映画に出演させ、しかもその女優と一緒に暮らしていたということだ。こうした部分については語られていないんだが、でもこうした部分が生きられていたんだ。
  • かつて映画と認められていたような映画、映画館で上映されるたぐいの映画は今では姿を消しつつある。そうした映画は今では、テレビとともに別のなにかにかわってしまったんだ。そしてその別のなにかを見つけ出す必要があるわけだ。
  • フォードのなかには、映画は映画にほかならない。映画は単純なものだという観念がある。そして彼は、いつも同じ主題をとりあつかっていた。彼がより作家的ないしはよりヨーロッパ的な映画作家だったのはそのためだ。
  • あとになって、その男がニコラス・レイだったことがわかったんだ。ぼくが思うのに、彼は自分のことを讃めている連中がいるところがどういうところかを見ておきたかったんだ。
  • トリュフォーさえもがヒッチコックと、とりわけテーマについて、シナリオについて語りあっている。それに対してぼくは、あとになってから、ヒッチコックはフォルムの創出者だ、画家だということを発見した。
  • 『イントレランス』や『国民の創生』には主題がひとつあって、それが題名になっている。『散り行く花』の場合は題名そのものが、これは主題をもった映画ではなく一幅の絵だということをはっきりと示しているわけだ。
  • ぼくの初期のほとんどどの映画にも主題がない。そしてぼくは、『フランス/一周/迂回/二人の/子供』と『勝手に逃げろ/人生』の時期に主題にまいもどった。それ以前は映画が主題だったんだ。
  • ジャーナリストというには人から吹きこまれたことをそのまま記事にするものなんだ。だから、できのいいプレスシートをつくれば、それはかならずあちこちに掲載されると確信できるわけだ。
  • バザンは、実際に映画をつくるのではなく、(自分の商品について語る)行商人と同様、映画について語ることによって映画をつくる映画作家だったんだ。
  • 労働と労働との間にはどのような関係があるのかということを知る必要があります。そうすれば、一本の映画のなかには、そのどこに労働があるのか、それはいったいどのようなものなのかということを考えることができるようになります。
  • ジェべという名の漫画家がいますが、彼はかつて、でかを主人公とする劇画のなかで、刑事や私立探偵というのは、とりわけ西洋の男たちにとって(女たちについてはどうかわかりません)、最大限の自由というものを表しているという逆説を展開していました。
  • それにわれわれは、本心からそう思っていたわけではないにもかかわらず、《これらの映画作家は偉大な…これらの映画作家は作家である、芸術家である》などと言っては、これらの映画を作家の映画としてもちあげさえしました。
  • テレビというのは不安を扶養するなにかだ。人々に責任があるにしろ、あるいはもはやないにしろ、今では人々の肉体に不安が定着しつつあり、しかもその不安は、ときどきあまりに強力なものになる。
  • 映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです…人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。
  • 俳優たちをつかうというのは、私にとってはいつも骨の折れることでした。それに、演出家の方が立場が低い場合は、その演出家は、逆に俳優につかわれることになります。
  • 私はまだ一度も、ひとから《おまえの映画は左翼的だ》とか《右翼的だ》とか言われたことがありません。映画の連中が私に投げつけた唯一の非難は、《おまえがつくっているのは、それは映画じゃない》というものです。
  • よくおぼえていますが、私は『気狂いピエロ』を撮りはじめる一週間前は、完全なパニック状態におちいっていました。なにをすればいいのかわからなくなったのです。
  • ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思い込み、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入りこんでいるということを理解しようとしません。
  • 人々はより多くのことを知りたがっている。別のやり方でよりくわしく知りたがっている。でもそのためには、つくる映像をより少なくし、それらをよりよくつくるべきなんだ。
  • 『カルメンという名の女』の場合は、二人の若い俳優がいた。新しいことを試みることができるはずだった。でもそうはいかなかった。かれらはすでにスターだったんだ。
  • 私は同時に、なにかぞっとするような思いも味わいました。というのも、その映画をつくった連中と観客の間にどんなコミュニケーションも成立していなかったからです。
  • 私がこれまでに何本かの映画をつくり、今もなお映画をつくろうと努めているのは、ただ単に、こわいからです。私は仕事を手に入れることに関しては、だれもあてにしていません。だから私には、明日になって仕事がなくなっていることがこわいのです。
  • アマチュア映画では、パパが自分の娘を、クリスマスに一度とバカンスのときに一度撮るだけです。そこには二つの映像しかなく、それでは十分じゃありません。だからこの場合は、映像をいくらかふやしてやる必要があります。
  • 真の妖怪的映画というのはむしろ、われわれに恐怖感を与えず、あとでわれわれを妖怪めいたものにする映画だと言えます。それに対し、われわれにいくらかの恐怖感を与えるそのほかの映画は、われわれをいくらか開放してくれるのです。
  • まただからこそ、私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです。
  • 私は自分がデッサンをかくすべを忘れたことを残念に思っています。以前はいくらかかくことができたのですが、やめてしまったのです。そして今になると、また始めるのがいくらかおっくうなのです。
  • だから、映画を撮るというのはきわめて単調な仕事です。そしてそのために、人々はあれこれと技巧をもちいたり、多くの人を呼び集めたりすることによって、その単調さを完全に隠してしまおうとします。
  • 車とか洗濯機とかの広告は、たとえどんなにつまらないものでも、またたとえ、もっぱら称賛的になり礼賛的になりしか語らないにしても、ほかのものより上手にその対象について語ります。そうした広告は、自らの対象のすぐそばにいるわけです。
  • 苦しみを託されたものとしての映画、―ぼくはこれはすぐれた観念だと思う。そして、自分に大げさに考えるべきじゃないと言い聞かせながら、この観念を自分に適用している。
  • そしてそれが『パッション』なんだ。この映画は、自分は走るすべを知っていると考えていて、レースに出ようとしていながら前もってトレーニングしようとはしないランナーのような連中と一緒につくった映画なんだ。
  • ぼくは自分のことが話されているのを知るといつもうれしくなる。そしてたとえばぼくに関するインタビューを見つけると、その語り手とぼくの間にコミュニケーションが成立することはほとんどなく、だから、ただぼくの名が口にされているかどうかだけを見ようとする。
  • 映画というのは、ものを見るある一定のやり方とものを聴くある一定のやり方のことなんだ。いくつかのものの見方のこと、それぞれ違ったやり方でのさまざまの見るという行為のことなんだ。
  • 夢が今でもまだ大きい力をもっているのは、夢はサイレント映画の時代に属するものだからだ。夢はテレビの時代のものじゃないわけだ。
  • 問題は、どのようにして映画をつくり、それによってどのようにしてきちんと生計を立てていくのかということだ。自分は定期的にいくらかせぎたいのかということだ。ぼくが関心をもっているのはこのことだけだ。
  • 連中はジャン=リュックなりゴダールなりの映画を必要としていた。それに対してぼくが必要としていたのは、連中はこの映画を必要としているのかどうかを知るということだったんだ。
  • ぼくはテレビ用の映画を数多くつくっている。でも残念ながら、それらは映画のやり方でつくられている。ぼくらはある時期に『ヒア&ゼア・こことよそ』をつくったんだが、でも距離の測定を間違えてしまった。マラソン・ランナーが百メートル競争に出場してしまうようなものだ。
  • それにまた、光をあてるということは、ひとつのアングルをとり、そこから光の円を描き出し、その円のなかになにかを置くということです。なにかをスターに仕立てあげるものは、光の束なのです。
  • 映画はどれもみな、どんな人の一日の生活よりも想像力に欠けています。ところが、それを見る人たちは、二ドル払わせられたうえになお、その映画は自分の人生よりもずっと素晴らしいと思いこまされているのです。
  • この映画のなかには、女たちについてのきわめて過酷な言葉がいくつかあります。私は今ではそれらを完全にばかげた言葉と思いますが、私のなかから出た言葉であることも確かです。
  • 私は今では、それらをよりよいやり方で語ることができます。当時は、だれもわれわれに映画をつくるすべを教えてくれなかったのです。自分がつかう言葉を…自分がつかう言語を、まさに自分ひとりで学ばなければならなかったのです。
  • 当時のわれわれには、完全に無邪気な…というか、なかば気が違ったようなところがありました。われわれの夢はつねに、ハリウッドで映画を撮るということでした。
  • それに映画の世界の連中は、互いに話しあうということをしません。私は映画のことについては、むしろ銀行経営者とかプロデューサーといった連中と多く話しあいます。
  • またここでは、売春はしばしば、女が自分の領土の一部分を外国人に売ったり、一時的に外国人に占領されるのを受け入れたりすることとして語られています。
  • 私はいつも、いくつかのメモなりいくつかの目印なりからなる、自己流のシナリオをつかって仕事をしてきました。そうしたものが必要なのは、一日の撮影が終わってスタッフと別れるときに、みんなが私に《明日はどこに集まるのですか?》と聞いてくるからです。
  • 私の敵は、映像を役立てようとしない人たちです。あるいはまた、映像を、提示するためよりはむしろ隠すために役立てようとする人たちです。
  • 私が自分の映画史のなかで長期間にわたって追い求めてきた唯一のことは、ひとりになることをできるだけ避けるということなのです。はじめはそのためにはどうすればいいのかさっぱりわからなかったのですが、でも私はそれにいくらか成功しました。
  • われわれのプロダクションは経済的に不健康な状態におかれています。われわれのプロダクションには、映画をつくるだけの金が入るだけで、映画の収益金はほんのわずかも入らないのです。
  • 映画をつくるというのは難しいことじゃありません。だいいち、金がかかりません。いや、金のかかる映画は金がかかり、金のかからない映画は金がかかりません。
  • 私が映画を好都合だと思うのは、こう言ってよければ、自分のそうした恥部を平気でさらけ出すことができるからです。しかも、それを見事にやってのけることができるからです。だから映画はおもしろいのです。
  • ヴァディムが美人をつかって映画を撮るときは、観客はしばしば欲求不満になる。というのも、ヴァディムがその女と寝ていることがわかるからだ。でもヒッチコックに関しては、彼はグレース・ケリーをものにしたりはしていないと確信することができるわけだ。


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