藤子・F・不二雄の名言集

2014/03/30


藤子・F・不二雄

本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)1933年12月1日 - 1996年9月23日

日本の漫画家

富山県高岡市定塚町出身、富山県立高岡工芸高等学校・電気科卒。
血液型O型[1]。
安孫子素雄(藤子不二雄?)と共に藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表した。
代表作は『ドラえもん』、『パーマン』、『キテレツ大百科』、『エスパー魔美』、『21エモン』など。

  • つまり、自分の頭の中で創り上げた架空世界を紙に定着させ、それを読者に伝えて読者の共感を得たいとか、あるいは喜ばせたい、楽しませたい、感動させたい……。そういう気持ちがあったから、プロのまんが家になったのです。
  • 『ドラえもん』の場合、手帳から取り出したタネが面白いかそうではないかという以前に、ひとつの特殊な事情が出てきます。今まで1000以上話を作ってきたのですが、そうすると、アイディア云々の問題よりも、話の展開のパターンが過去にかいたどれかに似てしまうということがあるのです。
  • もちろん「何を語るか」もたいせつですが、「いかに語るか」という側面がないと、せっかくの面白い考えも読者に伝わらないということになります。たとえば、「古池に蛙が飛び込んで、ボチャンといった」ということを単に表現しただけで、何百年もの生命を持つ芸術たりうる言葉もあります。
  • 『ドラえもん』は本来生活ギャグまんがなのですが、SF的要素も多量に含まれています。ドラえもんのポケットから出てくるマカフシギな道具、及びそれによってひきおこされるトッピな事件などがそれです。
  • 「人間は変わるもんだぞ。きみも頼子も。愛は色あせ情熱も冷え、暮らしの垢が重くるしくこびりついて、やがて苦い目ざめの朝が……行手は荒野だぞーっ!!」おれ(あのバカは荒野をめざす)
  • もし、ほんとうにタイムマシンやタケコプターやどこでもドアが手に入るなら、ぼくはそのために、どんな努力も苦労もいとわないでしょう。親愛なる小さな読者諸君もきっとそうだ、と思いますよ。(『ドラえもん』への批判に対して)
  • このとき、(手帳に)タネをふくらませずに書いておくことが、たいせつなのです。つまり、タネの鮮度が落ちるというか……。もしも、その中にすばらしい爆発力を秘めているタネであっても、事前にいじくりまわしていると、新鮮さが失われて起爆力がなくなることがあるのです。
  • 理想的な児童まんがは、子どもが読んで面白いだけでなく、大人にとっても面白くあるべきです。
  • 風も、不思議です。空中に何本かの線を浮かべて、それが風に見えるのです。大きな音、驚き、物の動き。すべて簡単な線で表され、読者もなんの抵抗もなく受け入れています。じつに不思議です。
  • ひょっとすると、まんがというのは人間が基本的に持っている、ある意味では非常に原始的な感性に訴えることで成り立っている、そんな表現分野なのかも知れませんね。
  • ドラえもんのポケットは、この開発されつくした地球の上にも、探査され生物の存在を否定された太陽系宇宙の中にも、夢と冒険の世界を創りだすことができるのです。
  • 近ごろでは、ぼくらが今まで「常識」としてきたことを踏みはずした作品もどんどん増えてきて、とても人ごとではありません。といっても、「マイナスを転じてプラスとする」ということが、もっとも基本的なパターンのひとつではないでしょうか。
  • 母体となる「感銘を受けた作品」を、キャラクターを入れかえたり背景を取りかえたりして、そのまま使ってしまうのは「盗作」であって、「創作」ではありません。(中略)作品の皮や肉を一切取りのぞいた骨組みの部分から、自分だけの世界を再構築していく、ということなのです。
  • 作者が創りあげたキャラクターだからといって、それは必ずしも100%作者の意思によって動くということではなく、あたかも自分が独自の意思を持って行動を始めるかのような部分ができてくる。そうした変貌を、「キャラクターが独り歩きする」というのです。
  • 正直なところ、ぼくにとっては、このまんが家になるということが、大冒険だったのです。たいして才能に恵まれているとも思えず、なんの保証もないのに、まったく未知の世界へととびこんでいったわけですから。
  • ところで、この(ドラえもんが道具を)ヒョイと取り出すのが、教育上好ましくない、という批判をしばしば目にします。のび太が、汗も流さず手も汚さず、ヒョイと良い物を手に入れる安直さが、人気の要因であると。おおよそ、そんな論旨です。
  • 四十歳を過ぎますと、一応今までの経験とか蓄積が、ひとつの武器となるのですが……。若い方々には、まだまだ先の話です。さしあたっては、精力的に作品を生み出していただきたい。そう思います。
  • ナンセンスに徹したまんがをかくのは、じつにむずかしい。何度かアタックしたことはありますが、成功しませんでした。ドラえもんが、いくら奇想天外な道具を出しても、それだけではナンセンスにならない。筋運びが問題なのです。どうしても話が、因果関係を離れずには展開しない。
  • 新人の方に2つのお願いがあります。それは個性的であれということと、普遍的であれということです。
  • ごちそうを食べる場合、ふたつのタイプがあります。うまいものから先に食べていくという人と、うまいものは残しておいていちばん最後に食べるという人。ぼくは、後者のタイプです。食事もドラマのひとつであるという考えからすれば、後者のほうが正解ではないかな、と思うのです。
  • 一応、登場人物が年を取らないタイプのマンガとして書いてるんですけど、スタイルとしては、のび太が一生懸命上昇志向を持って、もう少しマシな人間になりたいという姿勢を持ち続けているマンガであるわけですよ。いかにも成長マンガであるような装いをもちながら、実は成長しない。
  • 「そう思ってみれば、この『愛』なんてものは種の存続のための機能のひとつにすぎないんだね。」木地角三(間引き)
  • 「マジメ人間とかカタブツを翻訳するとこうなります!ツマラン人間、ガチガチ人間、ヤボ天のボクネンジン!!沈香もたかず屁もひらず人畜無害の空気人間!」千三津(権敷無妾付き)
  • 前年の73年に、日本テレビでアニメ化して、うまくいかなかったんですが、熱心な人がいて、連載10年目の79年から、2度目のアニメが放映され始めましてね。その頃は、単行本もある程度ゆき渡っていたので、相乗効果が生じて、この段階で初めて社会的に認められるほどの人気マンガになりました。
  • 「あいつは頭はいいが、ついでに人までいいから失敗ばかり……」「それでもこりずにユメばかり追いつづけてる……」「要するにガキなんだよ、早くおとなにならなきゃダメなんだよ!!」西郷強、大原正太、木佐キザオ(劇画オバQ)
  • そういう姿勢(「人気なんて関係ない。自分のかきたいものを、人気のあるなしにかかわらずかいていくんだ」)も立派だと思いますし、あってもいいと思います。しかし、プロのまんが家であるということは、その作品を出版流通経路にのせて、何万、何千万という単位の読者を相手にするわけです。
  • そういった独り歩きするようなキャラクターが、作品がヒットするための、ひとつの条件ではないか、とも言われています。「独り歩きをし始めたとき、初めてそのキャラクターは、生命を持ったといえるのだ」――そういう意見も、多いようです。
  • 「女房なんて力づくで押さえるべきものだよ。けっきょく、女がしたがうのは男の強さなんだから。」大和先生(コロリころげた木の根っ子)
  • なにも、SFといってもガチガチのハードSFである必要はないんで、チョビッと日常生活から離れた空想が膨らんだ部分があればおもしろいなあと思いましてね。100%空想の――たとえば何百年後の、地球を遙か離れた宇宙の壮大なドラマというようなのは、ぼくはあんまり興味を持たない方なんです。
  • 時には、「こいつが?」と思わせるような思いがけない一面を、ポロリと見せる。読者が、「あれっ?」と思ってくれれば、それはささやかな成功です。そのためには、作者がキャラクターを生身の人間として、どれだけつかんでいるかが、たいせつです。
  • ぼくの場合は、まず、思いついたときに、手帳にすぐメモしておきます。まんがのタネみたいなものですね。アイディア以前の、「ひょっとして、これをふくらますと、面白いまんががかけるかもしれない」というタネを、思いつくたびに書いております。
  • 学習誌の連載というのは、学習誌の中では、そこそこの人気は取るんです。でも、なかなか外へはひろがらない、それに、だいたい2年めくらいから、「そろそろ新しいものを」と編集部からいってくる。ですから、「ドラえもん」も連載を始めて早い時期に一度、最終回を書いちゃってるんですよね。
  • なによりも不思議なのが、輪郭です。一本の線でグルッと囲っただけで、その中の空間が顔になり、外の空間は外界になる。これは、まんがに限りません。洞窟に残された古代の壁画。長方形に区切られた空間は、角と四肢を意味する六本の短線を伴うことで、牛を表します。
  • 「全ての生命あるものの行動の目的は一点に集約されるのよ。生命を永久に存続させようという盲目的な衝動……ただそれだけ。この世にありたいということ。ありつづけたいということ。ただそれだけ。」エステル(カンビュセスの籤)
  • 『おぼっちゃまくん』は何年続いてますか?8年続けば読者が入れ替わってるはずですから15年は続きますよ(小林よしのりへ)
  • 古い作品であっても、名作と呼ばれるものの中には、おとなが読んでも面白い要素が無数にあります。そういうものを読み取っていくことが、自分のまんがに本当の子どもを投影させていくうえで、ひとつの有効な手段ではないか、と思います。
  • たとえば、面白い漫画をかいて、デビューします。それが連載になり、大ヒットしたとしましょう。すると、次からは、大ヒット作品にあやかったような類似の作品を求められることが、多いのです。(中略)そこには、「作品がパターン化してしまう」という落とし穴があるのです。
  • 「そうか……正ちゃんに子どもがね……と、いうことは……正ちゃんはもう子どもじゃないってことだな…………な……」Q太郎(劇画オバQ)
  • 自戒の意味もこめて言うのですが、漫画は一作一作、初心にかえって苦しんだり悩んだりしながら書くものです。お互いガンバりましょう。
  • 「なぜ(ユメを)消さなきゃいけないんだよ!大人になったからって……ぼくはいやだ!!自分の可能性を限界までためしたいんだ!!そのためにはたとえ失敗しても後悔しないぞ!」博勢(劇画オバQ)
  • だけど、マンガというのは、主人公が立派になっていくと、とたんにおもしろくなくなるということも本当ですしね。ですから、いってみれば、床屋の看板のアメンボウみたいなものでね。グルグル上へ上がって行くように見えて、実は同じとこにいるわけで。
  • 人それぞれですが、ぼくの場合は朝がいちばん頭が冴えます。夜はなるべく早く寝て、そのかわり朝五時半頃に起きて、およそ一時間半、時には二時間くらいの間、アイディアを考えるわけです。
  • それ(読者の共感を得たくてプロのまんが家になった)ならば、対象となる読者の人数は、多ければ多いほどいいわけです。そして、大勢の読者が支持してくれるまんが、すなわち人気まんがということになります。これは、やはり、まんが家として目指すべきひとつの目標だ、と思うのです。
  • 「すぐ払ってもらおう。おまえを一人前にするまでの養育費学資のいっさい、今の物価指数に換算して合計してある。応ぜねば訴訟!!」穴黑嚴三(じじぬき)
  • ほんのちょっとした思いつきを頼りに、ふくらませたり引きのばしたりひっくりかえしたり……。行き当たりばったりジタバタもがいているうちに、ナントカカントカまとめあげるという作業を、まんが家になってずっとくりかえしてきたわけです。
  • 常識を拒否し、論理を踏み倒し、飛躍、また飛躍!読者にとっては一コマ先が闇というのが、優れたナンセンスまんがであると考えています。かつての杉浦茂氏。現在の赤塚不二夫くんを、その世界の雄(オスではない。ユウとお読みください)と呼ぶべきでしょう。
  • ぼくの場合、登場人物(動物も含めて)のほとんどは、円の中に黒玉を描いて目を表します。現実に、そんな目があるわけじゃない。昔からのまんががそう描いてきたから、見よう見まねで描いてるにすぎません。だから、ときどき不安になるのです。これ、ほんとに目に見えるのかな……と。
  • ぼくは、しばしばSFまんが家と呼ばれることがあります。SFは大好きなので悪い気はせず、いつとはなし自分もその気になっているのですが、厳密に過去の作品を振り返って見直すと、「これこそSFだ!」と胸を張って宣言できる作品は、じつはひとつもないのです。
  • ナンセンスまんがといっても、これまた厳密な定義はないのです。(中略)僕の個人的な印象では、たとえば筋の運びが1+1=11となるのはユーモアまんが。1+1=3とか4とか、5、6、……8となるのが、ナンセンスではないかと思うのです。
  • 子どもは成長するにつれ、彼らをとりまく日常性の中にとりこまれ順応していくわけですが、夢と冒険に憧れる心は失ってほしくない、と思います。そして、その中から、二十一世紀なりの冒険家が現れることを、期待します。
  • ひとつ言えるのは、マイナスとプラスの落差が大きければ大きいほど、読者の受けるインパクトも大きい。したがって、面白いということが言えます。ひとつひとつのエピソードにおいて、この「落差」というものを念頭に置いて強調していく。
  • それまで非常に取っつきにくかったような、難解な物理学の世界だとか、哲学の世界だとかね、そういうものを漫画で解説すれば、少なくとも、非常に取っつきやすい入口にはなると思うんです。
  • それでもやっぱり、それぞれの時代にはその時代の人気を集める作品というものが、常にあるわけで。じゃあ、その人気まんがを、どうやってかいたらいいか。そんなことが一言で言えたら苦労はしないのですが、ただひとつ言えるのは、普通の人であるべきだ、ということです。
  • 主題は、その珍道具が日常世界に及ぼすナンセンスな影響にあります。珍道具の入手法ではありません。だから、限られたページ数の中では、極力早く珍道具を登場させることが、必須条件なのです。ポケットからヒョイと取り出すのは、この目的に沿った効率的手段です。(『ドラえもん』への批判に対して)
  • とにかく初めのうちは、精力的に執筆活動をされたほうがいい、と思うのです。と言いますのは、人間の頭脳――アイディアを生み出す能力というものは、学習能力のあるコンピュータみたいなもので、かけばかくほど、ひとつの方程式みたいなものが、自然と頭の中にインプットされていくのです。
  • たとえば、汚職とか、環境破壊とか、もっと根源的な人間の欲望とか。そんなものをまんがの材料に組み入れたとき、単にそれをあるがままにかいたとしても、結果として「諷刺」になったりするのです。
  • 「まんがの書き方を教えてください」という質問を受けるたびに、昔からぼくの答は決まっている。「とにかく書くこと。書いて書いて書き続けること。」ひどく不親切みたいで申しわけないけど、これしかないのです。
  • 生活ギャグという分野をずっとやってきて、このへんで集大成みたいな作品をかきたいと思い立ったわけです。SFあり、ナンセンスあり、夢も冒険も、その他何もかもブチこんだゴッタ煮みたいなまんがをと……。それが『ドラえもん』なのです。
  • 『ドラえもん』を読み返してみて、中にチラチラ孫悟空の影を見つけることがあります。この偉大なサルの超能力、飛行、変身、分身、縮身、巨大化などは、そのままタケコプター、動物変身ビスケット、フエルミラー、ガリバートンネル、ビッグライトなどに置きかえることができるのです。
  • のび太は外から帰ってくると、靴を脱いで家に上がるんですが、ドラえもんはそのままです。「廊下が泥足で汚れないのはなぜか。それは、ドラえもんは反重力で1ミリくらいは宙に浮いているからなのだ」ということになっているけれど、それは、ぼくは決めた覚えはない(笑)。
  • 飛行感覚というものは、多くの人にとって魅力あると思うんです。ジャンボ・ジェットなんかになってしまうと、ほとんど魅力はありませんが、セスナとか、ヘリコプターとか、小さくなると楽しいですね。
  • 「夢と冒険の世界」。この世界こそ、ドラえもんが住むにもっともふさわしく、このキャラクターはそのために創られたと言っても言い過ぎではないでしょう。なぜならドラえもんは、きわめて日常的な世界にありながら、たえずそこから脱出しようとしているキャラクターだからです。
  • しょっちゅういってることですけど、SFの、Sは「すこし」、Fは「ふしぎ」─「すこしふしぎな物語」というのが、ぼくが好きで読むものであり、書くマンガであり、ということですね。
  • その日はずっとアイディアを考え続けて一日を空費してしまうことが、よくあります。そういう日には、アイディアを必要としないような……。たとえば、表紙をかいたり、単行本のまとめをしたり。そういうことをやりながら、頭の中ではタネをころころ転がしながら仕事をし……(後略)
  • まんが家がまんがをかこうとする場合、頭の中にしまいこまれている断片の集団を、あれこれいじくりまわして、あれが使えそう、これが使えそう、と組み合わせたり捨てたり組み立てなおしたり……。そういう作業の結果、ひとつのアイディアがまとまってくるのです。
  • 「『あなただけが持ってない品』これに優るセールスポイントがありますか…」セールスマン(オヤジ・ロック)
  • 大スペクタクル映画で何万の軍勢が激突する場面があっても、それだけでは面白くないのです。淡々とした日常を描きながらも、共感をよせる人物がいて、妙に心を惹きつけてはなさない映画もある。ひょっとしたら、これが、人間が描けているかどうかではないか、と思いました。
  • 多分、ほとんどのまんが家は、かくことに熱中する以前に、読むことに熱中する時代を経過しているはずです。そしてそれは、幼年期の読書体験(現在は、むしろテレビ体験?)に根ざしている、と思うのです。
  • 『ドラえもん』は笑いの要素をメインに置いてはいますが、その他モロモロ諸要素ゴッタ煮まんがであります。ただひとつ、「諷刺」だけはまったく念頭にありませんでした。ところが、『ドラえもん』を読んでくださった人の中には、その諷刺性を云々される声も、かなりあったのです。
  • ですから、(子どもの世界を描き、その中で「ほんとうの子ども」を活躍させるためには)自分がまぎれもない子どもだった頃の姿を、修飾したり歪曲したりすることなく、一生懸命探ろうと努力することがたいせつだ、と思うのです。
  • そういったこと(まんがの話術)を理論づけて学んでいくことは、不可能ではありません。しかし、それでは、実践の身にはつかないと思います。外国語も同様で、学校で何年も英語を習っていても、いざ外国に行けば、なんの役にも立たないことがあります。
  • 高校生の頃、手塚治虫先生の『メトロポリス』という単行本が出ました。(中略)その後書きに、「心残りだったのは、ページ数の関係で各人物を掘り下げていけなかったことである」とありました。ぼくは、「へぇーっ」と思いました。もう充分面白いと思っていたからです。
  • キャラクターにはなるべく自由に動き回ってもらって、こっちは後からついて行くようにしているんです。
  • この(アイザック・アシモフ『空想天文学入門』)中の、「とほうもない思いつき」という章で、独創力のための条件として、①数多くの断片を持つこと。②その断片を組み合わせる能力を持つこと。などが挙げられているのです。「断片の組み合わせ」。言われてみれば、まさしくそうでした。
  • 何ていうか、今、わーっと玉石混交で出てますよね。あのエネルギーの中から、次の新しいものも出て来るんじゃないかと。これが衰退期に入って、この一発を当てなきゃダメなんだ、みたいなことになってくると、みんながみんな一発必中の漫画を描き始めると、そのときは、やばい状態だと思うんですよね。
  • それから、煙です。煙はたしかに、目に見える。しかし、その形を説明しようとしても、できるもんじゃない。文字通り、モヤモヤしてモウモウとして、とりとめないのです。それを、まんがは何本かの円弧か、短い斜線の組み合わせで、とにもかくにも表現するのです。
  • 「この赤ン坊ふたりでつくったんだよ だれの世話にもなっちゃいないんだよ。自分のものを自分が捨てて悪いのかよ!!」女学生(間引き)
  • 『のび太の恐竜』という作品があります。”恐竜”という断片が核になっています。これが古代の生物であるということは、すべての人が持っている知識です。これを、”のび太”という現代の少年と組み合わせることから、「ナントカカントカ」が始まるわけです。
  • 作者が最初にキャラクターを設定するときは、何もないところから創りだします。一応の青写真は描きます。「やたら食いしん坊」とか「お人好しでおせっかい」とか、ある意図を持ってキャラクターを創るのです。その段階では、単なる設計図にすぎません。血肉を持った存在ではありません。
  • 小さい頃と今とでは、いつのまにか視点が違ってしまっている。自分は、まぎれもない子どもを描いているつもりでも、ひどいときにはそれが子どもの姿をしたおとなであったり、おとなが外から観察し概念的にとらえた子どもであったり。そういう危険性が、往々にしてあります。
  • 中(幼年期の読書体験)で強烈な印象を残したのが、「孫悟空」です。これによって初めて”作り話”の面白さを思い知らされたのです。以後、”奇妙奇天烈摩訶不思議”なストーリーを追い求め読みあさることになっただけでなく、今では、かき続けることの原動力とまでなっているのです。
  • 考えてみますと、この世の中、本当に新しいまったく無から創りだす創作というものはなく、過去の作品になんらかの影響を受けずにいられないのではないか、という思いがしてきます。
  • かいているうちに、キャラクターがまんがを作ると同時に、まんががキャラクターを作っていくという相乗効果が始まり、次第に作者も意図しなかったような思いがけない一面をちらりと見せたりするようになる。
  • ”動物を飼いたがる子””飼いたがらない親””目立ちたがり屋””化石””ふろしき””住宅事情”……そのひとつひとつをとってみれば、誰でも知っている断片を組み合わせることによって、この作品(『のび太の恐竜』)は成り立っているのです。じつにあっけないほど簡単なことではありませんか。
  • 人気のあるまんがをかくということは、けっして読者に媚びることではありません。小手先のテクニックで、「こうかけば、人気が出るんじゃないか」とか、「こういうことをかけば、受けるんじゃないか」――そういうやり方では、作れないのです。
  • そして、いざまんがをかき始めるという段階になって、手帳から何粒かのタネを取り出します。それから、ひとつひとつ、どれがモノになるのか、ふくらませてみるのです。
  • 「サラリーマンは会社という機会に組み込まれた歯車なんだよ、勝手に脱けたりできるもんか!」大原正太(劇画オバQ)
  • かくということは、吐き出す行為でありますから、それだけではたちまちスッカラカンになってしまいます。そこで、摂取するということ。つまり、面白いことを求めて貪欲になっていただきたいのです。これはもう、なんでもいいのです。活字でも映像でも、刺激を受けるタネはどこにでもあるわけです。
  • 「よくあんな無茶をやったものね。」「そこが子どものこわいところさ……」「自分のユメにむかって直線的に、」「つっぱしろうとするからな……」「いろんなユメをもってたっけな…それが大人になるにつれてひとつ、またひとつ消えて……」小泉美子、木佐キザオ、大原正太、西郷強(劇画オバQ)
  • ちょうど『オバQ』ブームのまっさかりで、一か月の間に二十何本も話を作ったこともありました。その頃は――ちょうど三十代の前半だったのですが、猛烈なスピードでアイディアが湧いて出ました。だいたい十三ページぐらいのアイディアが三時間もあればまとまって、次の仕事にかかれたものでした。
  • 「結局……道をあやまるのも若者の特権ということかね。」おれ(あのバカは荒野をめざす)
  • 読者は王様なんです。王様の団体を相手にするんですね。その王様は一人一人好みも違えば感性も違う、実に種々雑多なその集団を一人でも多く面白がらせるというパワーがないとプロにはなれないんです。
  • 漫画家っていう、この世界に僕らが足を踏み入れたのも、そもそもは手塚先生の影響なんです。たまたま、安孫子くんが、僕のうちへ息切らして飛び込んできてね、すごく面白い漫画見つけたってわけですよ。それが、「新宝島」だった。
  • オバQの毛を、最初、モジャモジャ書いていたのは、ぼくがオバQをよく分かっていなかったんだと思うんです。書いてるうちにそれがわかってきた。オバQは本来3本の毛であるべきで、それをやっと正確に書けるようになったということだと思うんです。
  • だいたい新人のまんが家がデビューしまして、持ち味とか新鮮さとか、そういう魅力で読者を惹きつけていけるのは、一~二年かせいぜい三年が限度です。あとは、たえず新しい血を入れて、目先を変えて、自分のスタイルを変質させていかないと、読者に飽きられてしまいます。
  • 書く以上は、どれも大勢の人に受け入れて欲しい、と思っているんです。それが結果として、人気マンガと、はかなく消えていくマンガが分かれるんです。それがなぜかは、結果論としてもっともらしい理由はつきますけれども、本当のところはわからないんじゃないかなあ‥‥。
  • フィルタ――必要な情報を選別して取りいれるという、そういう能力のことです。普通ならば聞き流したり見過ごしたりしてしまうようなことも、まんが家はフィルターを通して、感性に訴えるものを蓄積していく。そこから新しいものを創りだす。たえず目と耳を開いて、目的を持って情報を収集する。
  • 「いただき」ということは、盗作にならない限り、けして悪いことではない、と思うのです。古い素材を組み立てなおして、まったく装いも新たな新作を創りだす。それが、ぼくが言う「いただき」ということなのです。
  • キャラクターの独り歩きにまかせっぱなし、というわけにはいきません。行き当たりばったり、やりたい放題であっても、それは散漫でとりとめのないキャラクターにしかなりません。また、生みの親としての責任の放棄ともいえます。そのかねあいを、ひとつの呼吸として見つけていかなければならない。
  • 人間は本当に複雑な生きものです。だから、まんが家はキャラクターを枠にはめてしまうのでなく、柔軟な目を持ってキャラクターの個性を生かし、ある程度自由に行動できるゆとりを持たせていくべきだ、と思うのです。
  • 「マイナスを保存しようとする勢力」というものを必ず用意して、これと闘いながらプラスプラスへと登っていく。この段階を形成するにあたって、ひとつ気をつけなければいけないのは、キャラクターの心理の動きです。主人公の心の動きに無理があっては、読者の共感を得られません。


-は~ほ,
-, , ,