料理の鉄人 日本の和食料理人
道場六三郎(みちば ろくさぶろう)
生誕:1931年1月3日
出身:石川県江沼郡山中町(現在の加賀市山中温泉地)
和食料理人
1931年1月3日、三男三女の末っ子として誕生。「六人兄弟の三男」という意味で「六三郎」と名付けられた。実家は老舗の山中漆器を扱う店であり、地元が歴史のある有名な温泉街だったこともあって、幼少時から料理に親しむ環境で育った。
山中尋常高等小学校を卒業した後、17歳の時に知り合いの魚屋の手伝いに入り、初めて包丁を握る。19歳で上京し、本格的に料理界に入る。
銀座「くろかべ」で料理人としての第一歩を踏み出し、神戸「六甲花壇」、金沢「白雲楼」と修行を重ね、28歳で「赤坂常盤家」のチーフとなる。1971年に独立し、高級惣菜店を開くも失敗に終わる。 その後、「新とんぼ」などを経て、銀座「ろくさん亭」を開店。
1993年から1996年まで『料理の鉄人』に初代「和の鉄人」としてレギュラー出演したことで知られている。27勝3敗1引き分けの成績を収めており、料理人ブームの先駆けとなった。「和の鉄人」を引退後もたびたびキッチンスタジアムに登場しており、2012年12月31日時点での通算成績は40戦34勝5敗1引き分け。
wikipedia
月刊『致知』7月号 インタビュー
料理の道一筋に歩み続けて66年。 今つくづく思うのは、「何歳になっても、人間を磨いていくことが重要である」ということです。どんな職業にも上には上がいるもので、自分だけの小さな世界で留まっていては、成長しません。常に謙虚さを持ち、上を目指していく。 決してもうこれでいいと思わない。85歳を迎えてもなお、そういう気持ちで調理場に立っています。これは若い時からの習慣が身についているのでしょう。
私は20代の頃、いろいろな店で修業を積んできましたが、「いま一番早くて綺麗に包丁を捌けるのは誰ですか?」 と調理師会の親方さんに聞いては、その料理人のいる店まで足を運び、「ああ、こういうふうにやるのか」と細かく観察し、ノートにメモして研究を重ねていました。自ら盗むようにして学んで吸収しているのか、あるいは人から言われて嫌々やっているのか・・・どちらが伸びていくのかは、言うまでもありません。20代の方には、是非この心構えを身につけていただきたいと思います。
17歳の時から魚屋で働き始めた私は、「六ちゃん、早く手に職をつけた方がいいよ」 と仕入れ先のチーフに言われ、地元・石川の調理師会々長さんに紹介状を書いてもらい、東京・銀座の 『くろかべ』 という日本料理店で働くことになりました。母親としては、周りから嫌われたりイジメに遭ったりすることが一番心配だったのでしょう、家を出る私に「六ちゃん、人に可愛がってもらえるようにせないかん」と言葉をかけてくれました。実際、『くろかべ』に籍を置いていた1年余りの間、店の親父さんや先輩、お客様から随分可愛がられましたが、それはひとえに両親の教育のおかげです。
両親は浄土真宗の信仰に篤く、事あるごとに礼儀・作法、人としての生き方を説いてくれたからです。「親や先生のいる前では真面目にやって、見ていないと手を抜く人がいるけど、とにかく神仏は全部見てござる。 だから陰日向があってはいけない。 どんな時も一所懸命やらなきゃいけないよ。」そんな言葉に従って、朝一番に店に来て先輩の白衣と靴を用意しておいたり、ボロボロになった高下駄を修理したり、あるいは親父さんから 「ガス台が汚いから綺麗にしろ」 と言われれば、翌朝4時まで徹底的に磨いてピカピカにしたり・・・。どうやったら親父さんや先輩が喜んでくれるかを常に考え、身を粉にして仕事に打ち込みました。そうやっていると、思いがけず先輩が料理のレシピノートを見せてくれるようになったり、新しい仕事を回してくれるようになって、どんどん料理の腕を磨くことができたのです。
もうひとつ、修業時代からいつも心に留めていたことがあります。
「人の2倍働く、人が3年かかって覚える仕事を1年で身につける。」とにかく早く人の上に立ちたい、下積みの期間をできる限り短くして一人前の仕事がしたい、という思いを強く抱いていました。そのためには、まず店の料理人の中で一番にならなければなりません。
どうやったら早く、綺麗に手を動かせるか、生産性を高めていけるか、絶えず工夫を凝らしたものです。例えば、ネギやキュウリを切る時、人が3本置いて切っていたら、私はその上にもう1本重ねて4本で切ってみる。それができるようになったら、5本で挑戦してみる。
当然、最初はなかなかうまく切れませんが、脇の締め具合や手首の使い方など、試行錯誤を重ねていくことで、自分だけの得意技を編み出していきました。
当たり前のようでずか、仕事にも人生にも締め切りがあります。ですから、常に先を見通して時間を無駄にせず、一つ一つの仕事をテキパキと仕上げていくことが大事だと思います。
些細なことを疎かにする人は伸びていかない・・・これはどんな仕事にも当てはまるのではないでしょうか。これまで私は数多くの料理人と接してきましたが、中には伸びていく人もいれば途中で止まってしまう人、消えていないくなってしまう人もいます。その差はどこにあるのか。私は料理の腕以上に日常のあり方に表れると思っています。
玄関で脱いだ靴を揃えるとか身の回りの掃除をきちんとするとか、あるいはお客様にお膳を出すときにお皿や箸が傾いていないかなど、日常当たり前のことが徹底できているか否か。
更に言えば、伸びる人は若いときの数年間に〝バカ〟がつくほど仕事漬けの日々を送っています。これは間違いありません。
どこまでも上を目指し、謙虚に素直に人の言うことを聞く。 そして、どんなに辛いことがあっても、ここが踏ん張りどころと思い、逆境をも喜んで受け入れ、苦しいことから逃げない。 決して諦めない。そこが一流と二流を分けるのです。
道場六三郎の名言
- (教育と教養が必要、その心は?)「今日行く」ところがないといけない、「今日用」がなければいけない
- この店(「常盤家」)は総理官邸とか衆議院の議院会館とか大きな施設の料理を幅広く担当していましてね、毎日とても忙しく厳しい仕事内容でしたね。出張料理なんかを覚えたのも、この時でした
- サービスの女性が、客の注文を売切れという理由で断わると、叱責し、クビにしました
- たとえどんな逆境にあっても、僕よりつらい男は世の中にたくさんいるんですね。そう思うと、むしろ〝逆境にある喜び〟みたいなものを感じるんですね
- たとえばゴルフをやるときに、雨が降ってきたとする。そのときに嫌だな、と思ったら、それは負けだ。雨が降ったら、その雨のゴルフをどう楽しむか、ということを考えることだ
- できることなら二刀流は使いたくないですけど、時代に会った料理を作っていくのも、料理人として大切なことですからね
- どうやったら店まで客に来てもらうかを真剣に考えました。まず店の男性に着物を着せ、角帯をしめさせました。そして彼らに、銀座のクラブのママ、評判の良いホステスの名前と誕生日を調べさせて、誕生日には必ず店に、うちの男性が花束を持っていったのです
- どんなにいびられてもへこたれない僕を見て、板長のいじめも徐々におさまっていったのです
- もし、苦しいことから逃げ出すことを選択していたら、ズルズルと落ちるところまで落ちていたと思う
- ものの一ヵ月もたたないうちに同輩とケンカしてしまいましてね、せっかく入った「新喜楽」を飛び出してしまうんです
- よく、自分が以前に働いていた時の客をとっては悪いな、などと言う人がいますが、僕は商売とはそんなもんじゃない、と思っています。自分が生きるか死ぬか、という時にそんな「きれい事」を言ってたんじゃ、生きのびてはいけない
- よく「お前は駆逐艦か」と言われたものですよ。それぐらい素早く、黙々と働いた
- 過去の栄光にすがるのはみっともない
- 客に店に来てもらうために、どんなことでもキメ細かく対応していかなければならない、ということだと思うんです
- 健康でありさえすればどうにでもなる。神に祈るとしたら、我に健康を与えたまえ……です
- 見た目がいかにきれいに見えるように小細工をしても客には絶対に受け入れられない。食べて旨い!と言わせ続けなくちゃ負けだと思っています
- 今、来てくれているお客様が大満足してくださるように尽くすことだ
- 今の時代、見せるだけの料理や、何が何だか分からない料理が結構世の中に受け入れられていますからね。哀しいですね、こういう現実は
- 仕事にも人生にも締め切りがある
- 仕事はやりたいことだけやるわけにはいかない。だったら、今やらなきゃいけないことを楽しむことを考えたほうがいい。仕事はご機嫌でやるのが一番
- 市場に行かなきゃ魚は見れない。一番腹が立つのは近ごろの若いやつは注文を電話でするんです。電話で魚は見えないだろうって
- 市場に行くと旬が分かります。行ったらメニューが浮かぶんです。私“市場六三郎”と言われているんですよ
- 自分が日本料理の世界にいるから言いにくいんだけど、でもあえて言うと、必ずしも先輩の仕事を受け継ぐことだけが大切じゃないと思っているんです
- 出張料理なんかも、それで儲けるというほどの規模じゃありません。でも客がぜひと望んでいるなら、喜んで引き受けなければならないと考えて対応しました。一〇〇㎞以上離れた場所でもトラックを仕立ててよく行ったものです
- 出張料理の時には天ぷらの設備、握りずし、おでんの設備と、すべてをセットにしなければなりません。それと氷。氷彫刻をやったのも、ここで働いてたからですね、何しろ冷房のない時代でしたから夏は氷彫刻、花氷などが不可欠なんです
- 小さな店に経営者が二人いると、命令系統も二つになるから私の意志が従業員に行き渡らないんです。必ず店の内部が二つの意見に割れてしまう。これじゃあ料理長としても経営者としても困ると思い共同経営者に権利を譲り、それを元手に「ろくさん亭」を独立開店させることになるわけです
- 食は命を守る大切なもの
- 人間、一度でも崩れることを許したら崩れグセがついて、次の「ここ一番」も頑張れない
- 人生には「ここ一番」という踏ん張りどころが何度かある。どんな分野でも一流と呼ばれるのは、そういう「ここ一番」の局面で踏ん張れることができる人
- 厨房で働いている若い人たちにも、『お客様への思いやりを大切にすること。それができなければ、包丁を持つ資格はない』と教えています
- 素材そのものの持ち味を崩さずにすっきりと出す。そういう料理に徹したいと思います。しかし、それが意外とぜいたくなことなんですね、今の時代は
- 素材に国境はない
- 素材を成仏させる
- 知らないことは、恥ずかしいことではない。『教えてぇな』とたずねると、そんなことも知らないのか、と言うやつもいるが、そんなのはどうせたいしたやつじゃない
- 東京の一流料亭「新喜楽」の女将だった木村さくさんが当時、所得番付の一位だったんですよ、確か。僕はすごいもんだな、と感心して、この店に入りたいと思ったんです。ちょうど金沢の「治作」という店の主人のつてがあって、結局「新喜楽」に入ることができたんです
- 僕はマグロ、海は料理、泳ぐことを止めたら死んでしまう。だから死ぬまで動き続ける
- 僕は何を言われても黙って手だけはすごいスピードで動かし続けました
- 料理は食べる人の立場になって作ります
- 料理は人が作る。いい料理を作るためには、人を高めていかなければならない
- 料理人にとって包丁選びはとっても大切なこと
- 臨時国会の時など、二五〇本くらいの氷を会議場の後に置いて、扇風機をかける、なんて今では考えられない苦労をしてたもんです
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