大塚 英志の名言集

2014/03/18


Eiji Otsuka

大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日)

評論家、小説家、漫画原作者、編集者。白倉由美は妻。

東京都生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒。大学では日本民俗学を専攻した。本来研究者を目指したようだが、師事した宮田登には論文を学問向きではなくジャーナリズム ジャーナリスティックであると認識されたために、断念したという。しかし、大月隆寛によれば、大塚は宮田ゼミに所属していなかったという。学生時代は「大塚えいじ」のペンネームで漫画同人集団「作画グループ」に所属して漫画を描き、ギャグ漫画『トマト殺人事件』を同人誌『GROUP』創刊号(1978)に載せたこともある。

  • 一見、小説を書くということと関係のない出来事の中にこそ常にあなたたちはいかに書くか、という問いかけはいくらでも転がっているということも同時にわかってほしいと願います。(キャラクター小説の作り方p260)
  • よく人はオリジナリティとか今までにない作品をつくりたいといいますが、意外とものを描くということは、実は僕たち人間が共通に持っている何かを繰り返しそれぞれのやり方で掘り返していって、その共通のものを掘り起こしたのが、いわば作家の力であるといえると思います。(atプラス05号p81)
  • ジャンクなもの、チープなもの、フェイク、そういった類のものに人生の一瞬、自分を託すことはなかったのか、といえば、ぼくはある。(サイコ 小林洋介の最後の事件 角川文庫 あとがき)
  • ぼくは、創作は誰にでも可能な方法上の組み合わせだと主張することで「作者の固有性」を否定するポストモダニストではありません。方法を使いうる一人一人の人間の「固有性」をむしろ誰よりも楽天的に信じています。(物語の命題p265)
  • それで、彼らに届いたかって?届いたよ。届いたから売れる。資本主義はその点はいたってシンプルだ。(サイコ 阿呆船 あとがき)
  • サブカルチャーでしかないアニメやコミックはしばしば歴史から切断され、そのことで容易に文化も時間も超えて「他者」へと届いてしまう。(アトムの命題p16)
  • まともに語ろうとすると場合によってはバカに見えてしまう、そういう素材の方が圧倒的に多い。それが<現在>というものの困ったちゃんなところである。(定本 物語消費論p152)
  • これは敗れし者の物語である。(摩陀羅 天使編1 あとがき)
  • 経済によって支えられていた価値観が揺らぐ時、社会は消費する価値としてキャラクターとナショナリズムを見出すのである。(「おたく」の精神史p229)
  • この日本という国が車や電気製品でなく、ゲームやジャパニメーションというソフトを作ることでしかで生きていかなければならない運命にあるとすれば、変な言い方ですが「実学」とか「応用の学」としての文芸評論というものが必要になってくるはずだ(物語の体操p106)
  • 「守るべき日常」を出発点としたとき、そこで成立する「歴史」はむしろ、多様な他者を包括するかたちで最低限のコンセンサスのようなものではないか。(少女たちの「かわいい」天皇p151)
  • 小説家志望者たちが小説家にうまくなれないのは、「私探し」と「小説を書く」という行為をうまく区別できないからのように思えます。(キャラクター小説の作り方p8)
  • 彼らにことばを届けるには消費される小説の速度が必要だ。かつてのぼくもそうだったから。(サイコ 阿呆船 あとがき)
  • 大学というのは思いの外、可能性に満ちている場所ではないか、と。(大学論 いかに教え、いかに学ぶかp9)
  • コミュニケーションの手段の進歩がコミュニケーションを却って難しくしているのだが、それはメールを使う使わないといったレベルではなく、実は「他人」と対話する気があるのかどうかということに関わる問題だという気もちょっとする。(新現実vol.1p159)
  • タイアップ、という保証がなければ本が出せない時代はしかしタイアップを方便とすれば何でも出せる時代である。彼らにとって「関連作品」であれば中身は何でもいいのだ、何か印刷していれば。だから本書は何の問題もなく刊行される。(東京ミカエル下 あとがき)
  • ぼくは「一次創作」の特権性を疑うためにこの講義をしていますがしかし、同時に「二次創作」がそのことによって逆に特権化せしめよう、とも思っていません。(物語の体操p120)
  • ぼくにとって「おたく」はやはり平仮名をもって書かれなくてはならないものだ。(「おたく」の精神史p3)
  • 確かに作家の置き換え可能性みたいなことは、記号論的な言い方としては成り立つと思うし、批評家のぼくはそううそぶくよ。でも、そう簡単に作家Aと作家Bは置き換え可能じゃないんだよね。(リアルのゆくえp134)
  • 近代が「国家」についてのたった一つの歴史を作り上げて行く時代だとすれば、それに違和感を表明したり、あるはそこには決して回収されない多様な歴史があったここはやはり忘れてはならない。(北神伝綺・下 あとがき)
  • ここで誤解のないように言っておくが「エヴァ」がセミナーと同一構造だからダメだ、といっているのではなく、セミナーも「エヴァ」も問題解決の手段として間違っている、といっているのである。どう間違っているのかは自分で考えなさい。(大塚英志のおたく社会時評第一回)
  • マーケティング理論をマーケティング理論としてしか使わないのはモラルなんだって、ぼくの。(リアルのゆくえp62)
  • 批評は作品の外部に特権的に立ったつもりでいても、それが語られた社会や政治に当然強く規定され、しかも、その関わりがしばしば見失われることで批評は逆に無自覚に表現を規定することが起こりうる。(アトムの命題p254)
  • 戦後という、ある種の人々にとっては愚かしい日々もまた歴史なのであり、だからこそぼくは「戦後史」との和解を常に主張し続けるのである。(「彼女たち」の連合赤軍p171)
  • やはりぼくは「小説」や「まんが」といった物語にはそれなりの「意味」があった方がいいし、その「意味」も、いろいろあった後の一番最後にはどこかほんの少しでいいから前向きで健全な何物かであった方がいい、という感情がどこかにあります。(物語の体操p166)
  • 版元が替わった件についてはいつものアレです。もうぼくの方の読者には慣れっこでしょ。(超鉄大帝テスラ 下 あとがき)
  • 病の抑止はマスのレベルにおいてもできる。でもそこからさらに逸脱していく者に対して、それを救済することは資本主義システムのなかで出てきた大量生産の消費財としてのサブカルチャーの機能する範囲と限界は見極めるべきです。(物語消滅論p166)
  • ただのサブカルチャーの中に知らん顔をして紛れ込むことで届いたり生きのびていく批評もあるはずだ。(「彼女たち」の連合赤軍p326)
  • キャラクターに血を流させることの意味をいかに回復できるか、ということが実はキャラクター小説とは本来、異質であるはずのこの国の「文学」の最大の問題としてたった今、あるからです。(キャラクター小説の作り方p8)
  • ぼくは禁忌と戯れたり、それを侵すことが何かの意味の有ることだと思う程に若くもないし「サイコ」をめぐるトラブルが「表現の自由」の問題だとも思わない。ただ、まんがとその周辺に成立した表現が思いの他、閉塞している。そのことに何より困惑する。(サイコ 情緒的な死と再生 あとがき)
  • ただのジュニア小説や半端なミステリーでしかないぼくの書物でさえ、それを商品として貴方の手許に届けるためには様々なものと軋轢を起こし、それをはね除けなくてはならない。(サイコ 小林洋介の最後の事件、西園伸二の憂鬱 講談社ノベルス あとがき)
  • こういう時代だから人が死んだり、多重人格者やハルマゲドンやそんな類の物語こそが必要なのだとぼくは考える。綱渡りだけれどね。けれどそれがぼくの選択した人生への態度だから。(サイコ 情緒的な死と再生 あとがき)
  • 本物=オリジナルはもはやそれ自体としては何ら価値をもっておらず、<複製>と参照されその差異を確認するためにのみ、存在している。しかも、困ったことに<複製>の方がとりあえずはリアルだ。(定本 物語消費論p87)
  • そしてつぶやかずにはおれない。戦後社会に生まれおちたぼくがいきてきた道筋は本当に「歴史」の名にあたいしないのか、と。(「彼女たち」の連合赤軍p151)
  • 少女まんがの世界には他者がいない。そこにあるのはただ自意識だけで、この自意識は「エヴァンゲリオン」でゼーレの連中が夢みたような「補完」された世界のよう に自他の間にだらしなく共有される。それが少女まんがの本質であり限界でもある。(大塚英志のおたく社会時評第七回)
  • 「死」を待望する感情の向こうにもう一人、「出発」を待望する自分はいつの時代にもいるはずだ。(夏の教室 あとがき)
  • 上手下手はともかく大抵の人々がきちんと基礎的なトレーニングを行えばそれなりに水泳やサッカーやゴルフをこなせるように、小説もまたそれなりに書けるようになるはずです。(物語の体操p217)
  • 「人が既にある何かを反復していくこと」と「人が固有の何者かであること」は少しも矛盾しないよね(atプラス05号p73)
  • 構成要素に還元され易いものとしてまんが的な記号はあらかじめ、戦後まんが史の中に自覚的に用意されていたのであり、ギャルゲーのキャラ表現の中に突然、現れた考え方ではない。(アトムの命題p68)
  • 「物語」の因果律にイデオロギーを代行させる社会のもたらすリスクを回避するために「文学」はとりあえず必要だ(物語消滅論p226)
  • 批評でどう形容しようとぼくは消費財としての小説やまんがを作ってるんだからやっぱり「引っかけてる」わけです、正々堂々。(リアルのゆくえp20)
  • 「小説」を教えてみてつくづく思うのは「小説」を書く技術の何割かは「学力」と言い換えた方がしっくりくる技術であるということです。(物語の体操p150)
  • 何がいいたいか。ぼくはぼくの固有性の証明のために小説を書いているわけではないので君は君の固有性の証明のために小説を読むようなさもしい大人になる必要はない、ということだ。(夏の教室 あとがき)
  • まあ、オリジナル版からパチもんまで全部自前で用意するっていう悪質さがぼくのスタンスであるのだけど。(多重人格探偵サイコチョ1巻 あとがき)
  • 君たちはもしかしたら小説家という固有の作家にはなれないかもしれない。けれども訓練次第によってはブルーカラーの作家になれるのだ。(物語消滅論p67)
  • 『アトム』あるいは手塚治虫を介することで、遠い国の戦争と一見、全く何の関係もなく存在しているかに見える、たった今、君たちの目の前にあるまんが表現もまた否応なく「戦時下」である現在と結びついてしまう。(アトムの命題p288)
  • 小説家になりたい、でも、なれない。そういう無数の人々の存在があって初めて小説家になった人々の特別な存在としての地位が保たれるのです。小説を書くという行為が〈秘儀〉であることが証明され続けてしまうわけです。(物語の体操p11)
  • まんがと小説と映像の設定にどんな整合性があるのか、についてはぼくは全く関心がない。そういう謎本的な関心でしか作品を見られないことはただの不幸でしかないし、せいぜい謎本ライターに仕事を与えるだけである。(多重人格探偵サイコREAL あとがき)
  • 手塚治虫、あるいは『鉄腕アトム』について語ることは、この国がいかに「戦後」を受容してきたかについて語ることに等しい。それは断言できる。(アトムの命題p8)
  • 一つのまんが、国境や宗教や文化をひどくあっさり超えることにぼくは違和を持つ。その違和が、ぼくがジャンルや形式を侵犯したくなる動機なのだ、と思う。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • 少なくとも思想は明らかにアプリケーションとして受けとめられていると思う。良くも悪くも。(新現実vol.2p84)
  • かつてエンターテイメントとして人々を動かす技術は、政治的に人々を動員する技術にあっさり転用されてきました。それはある意味でとても恐ろしい技術であり、だからこそぼくは一人の作者としてその危険な技術の担い手であることに自覚的でありたいと思うのです。(キャラクター小説の作り方p312)
  • 映像は本を売るCMじゃない、だから「原作」の売り上げで制作費なんか回収させてやらない。それが皮肉ではなく映像を作る人々へのぼくの示せる唯一の誠意だ。(サイコ 雨宮一彦の帰還 講談社ノベルス あとがき)
  • 仮想現実に対し現実を対峙させることがさして効力を持たないのは、仮想現実を現実より優位に置いているからではなく、仮想現実という概念そのものがすでに「現実」に対する批評性を含んでいるからである。(「おたく」の精神史p18)
  • 後は歴史を自力で学んで下さい。書物は本屋や図書館に行けば山程あって、そこで学べることで最低限、なんとかなるのですから。(少女たちの「かわいい」天皇p266)
  • バーチャルな領域にとどまり切れず、安易に「現実」を求めてしまうところに、今、ぼくは日本型「おたく文化」の限界を見る。(「おたく」の精神史p224)
  • ぼくの近代文学批判の大前提は、「私」と書きはじめてしまえば「私」があることを保証してしまうこの国の「文学」への懐疑です。(物語消滅論p44)
  • ぼくは「伝統」などという実体のないことばを柳田國男と同様に信じませんが、しかし、形式や主題は方法や技術であるからこそ、個人を超えて繰り返され、そして、それが世代を超えて連なっているように見えることを少しも否定しません。(物語の命題p263)
  • ぼくたちが示してしまった「細部」への執着は、結局は「主題」や「意味」からの逃走でしかなかった、と今は言える。(「ほしのこえ」を聴けp9)
  • 表現の出自などはどこまでいっても政治的なのだという当たり前のことを改めて愚直に書いているだけである。(映画式まんが家入門p13)
  • サブカルチャーは否応なく歴史的な所産であり、その表現の形式も歴史の影響なしには生まれない。歴史的記憶と対になることでサブカルチャーは「歴史」を構成する要素になり得るとぼくは思っている。(アトムの命題p16)
  • それでおまえは自分の書いたものにどう社会的責任をとるのか、というつまらない問いが返ってくるかもしれないが、それには「とってきたよ、ずっと」と答えておけばいいだけの話だ。(サイコ 情緒的な死と再生 あとがき)
  • 小説版『サイコ』はかつて君たちの、子どもでも大人でもない不確かな少年期少女期を一瞬だけ、伴走する、いわば通過儀礼のような物語として最初から――そう最初からだ――意図されていた。(サイコ 雨宮一彦の帰還 角川文庫 あとがき)
  • キャラクター小説を志願するあなたたちは「文学」であることを恐れてはいけません。「キャラクター商品であること」のついでに「文学」であることを両立させてこそ「キャラクター小説」は「キャラクター小説」足り得るのです。(キャラクター小説の作り方p280)
  • コピーを繰り返すことで洗練され、出現する美というものがある。(「おたく」の精神史p144)
  • 作り手自身が抑圧する側に回ることで保身しているものこそが本当は「文学」の戦う相手だったんじゃないの、と言ったところで今も昔も誰も聞かないのだろう。(【書評】【1】戦時児童文学論 週刊ポスト2011年1月7日号)
  • 『物語の体操』でも、作者の特権性は技術論に還元できるとうそぶいたけれども、でもぼくはどこかに「作者」っていう主体はあるべきなんじゃないかとは思っているのね。(リアルのゆくえp55)
  • 『サイコ』は今では懐かしささえ感じる「キレる14歳」とともにあった。バタフライナイフを懐に忍ばせ、世界に対して脅え、あるいは自分であることに耐えかねているような彼らと。(サイコ 小林洋介の最後の事件 角川文庫 あとがき)
  • ぼくたちの「表現」の届き方はひどく過剰に翻訳可能なものとしてある。そして、ぼくはこのようなディスコミュニケーションが不成立な事態こそが、この世界を生きていて、ひどく居心地が悪い。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • のらくろ的な、ミッキーマウス的な非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間、手塚のまんがは、戦前・戦時下のまんがから決定的な変容を遂げたのである。(アトムの命題p137)
  • 一見、矛盾に満ち、脈絡のないぼくの仕事が、しかし、「近代的言説」の立て直しという点で一貫していることは、こういうことを自分で説明することにぼくは旧世代なので恥じらいはありますが、言わないと何もわからない時代なので、敢えて記すこととします。(物語消滅論p227)
  • 自らの言説が他者に作用し、そのことで他者が変わっていく。他者とコミュニケートしようとする時、ぼくたちはこの耐え難い欲望に直面する。自分の言説が他者のためになる、という願望、それによってぼくたちは他者に言説を投げつけることを自分に許容する。(「彼女たち」の連合赤軍p288)
  • 物語の中で「固有性」を否定することと、受け手一人一人や作者の「固有性」を否定するのとは全く違う。(リアルのゆくえp143)
  • ぼくは「新劇」との齟齬を目論んだ。近代文学の成立をほぼ同時にこの国の近代に成立した「新劇」にぼくのまんがを自分で「翻訳」しようとする動機があったとすれば、その一点だ。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • 速度。そう、重要なのは消費される小説だけが持ちえる速度だ。屑さえも書物に仕立て上げる速度だ。その速度に乗せなければ届かないことばというものがある。その速度に乗せなければ届かない遠い場所に読者がいる。(サイコ 阿呆船 あとがき)
  • チープな小説が書きたい。死ぬ程不用意で杜撰で、三年たったら小説の名も忘れ去られてしまうただ消費されるための小説を。(サイコ 雨宮一彦の帰還 講談社ノベルス あとがき)
  • オリジナリティの捉え方として、ある商品が優れているのはオリジナリティがあるからではなくて、市場に対してどこまで誠実に対応しているかというところに自分の価値観を置いていこうと思ったわけね。(リアルのゆくえp146)
  • 作ってないっていう事実一点でおまえらの負けだって。見る前に飛ばんと。若者は(笑)(「ほしのこえ」を聴けp188)
  • この舞台が演出家や役者によって「誤読」され、そして、ぼくの意図を救いがたく解離することをぼくは望んでいる。「届かなさ」というコミュニケーションをこそぼくは渇望しているのだ。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • そもそも「盗用」や「盗作」は何故、後ろめたいのでしょう。そこにはやはり近代の創作行為を呪縛する「オリジナル」の神話が影を落としているきがしてなりません。(物語の体操p48)
  • ぼくたちは目の前に存在する<モノ>が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ<モノ>に使用価値を求めることの方が奇異な行動であるという感覚を抱きつつある。(定本 物語消費論p7)
  • WEBで世界同時にまんが表現が消費可能になった今、右から左に進行し、着彩されず、特化したコマの構成論からなり、私小説的内面性を作中人物に与えたこの国のまんが表現は、ある部分を捨てたり変化させる必要がでてくるはずだ。(【書評】『ユリイカ』8月号 週刊ポスト2010年11月19日号)
  • 映像にすることで生じる齟齬、小説にすることで生じる齟齬、受け手の反発や異業種とのディスコミュニケーションを含め、形式を超えると一瞬、そこに翻訳不可能性が生じる気がするのだ。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • 「大きな物語」への願望が現実に向けられることに、ぼくはやはり生理的な拒否反応が今も昔もある。物語はそういった特に暴走し易い欲望の受け皿であり、社会の安定装置であるべきだ、というのがぼくの立場だ。(「おたく」の精神史p229)
  • ディティールには意味が宿る細部と宿らない細部がある。(リアルのゆくえp125)
  • しかし、それは文芸誌的文学や文芸誌的文芸批評の擁護を全く意味しません。そんなものは死んでしまうか、文化財にでもすればいいのであって、文芸誌的文学の「外側」の「現実」の中で、「文学」や「文芸批評」は改めて、世界と向かいあえるのかが問われている、ということです。(物語消滅論p218)
  • 「物語」とは揶揄され、嘲笑われ、そして破壊されるためにかつてはあった。(物語の体操p220)
  • かつてあった、「禁忌」を暗黙のうちに抱えた大きな共同体というのも厄介だけれど、プチ禁忌が地雷みたいにそこかしこにあって、歩く度に足許でプチプチと荷造り用のAIRパックを踏みつぶしたみたいな音がするのも実のところ鬱陶しい。踏むけど。(少女たちの「かわいい」天皇p90)
  • 妙に「日本文化」化したまんがへの愛国意識からWEB化・国際標準化という二重の変化の要請をスルーした時、この国のまんがは紙とともに死ぬ運命を選択することになる。死ねば。(【書評】『ユリイカ』8月号 週刊ポスト2010年11月19日号)
  • 何故、戯曲なのか。それは多分、翻訳が過度なまでに可能な世界にサブカルチャーの作り手としてのぼくが生きているからだ。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • ぼくたちの表現は殆ど暴力的に翻訳されていく。過度に届く。(多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮一彦の消失 あとがき)
  • おまえら、もっと反発しろよと思うんだけど、してくれないの、2チャンネルで悪口書くぐらいで。(小説トリッパー2001夏号p9)
  • サブカルチャーに由来したそれらの出来事は全てサブカルチャーに送り返して、サブカルチャーとして無理やり消費させよう。それがこの小説だ。(サイコ 雨宮一彦の帰還 講談社ノベルス あとがき)
  • こういう言い方をすると商業主義をただ肯定するように聞こえるかも知れませんが、経済的に自立したメディアや表現が、「表現の自由」を自ら担保できるという側面があるのです。(web新現実p7)
  • 権力の形成に対する国民の欲望が見せかけ上の権力者の意思を常に産んできたのであって、透明化する権力論の先には権力の形成に国民はどう関与し責任を持つかっていう問題が待ち受けている。(リアルのゆくえp117)
  • ぼくは自分の書いたものを殆ど読み返さないし、著書も原稿が載った雑誌もすぐに失くしてしまうが、それは読まれる先から消えてしまうことが書物にとって幸福な運命だと信じているからだ。(ロリータ°Cの素敵な冒険p246)
  • 目の前で終わっていった雑誌群が文化運動を擬態することで商業的に敗北したのは明らかだったから、ぼくはまんがを何よりも商品としてまず一義的にとらえることにした。(「おたく」の精神史p30)
  • ぼくたちが自分たちの言葉や表現だと屈体なく信じているものの多くが実は知らず知らずのうちにある枠組みの中で思考させられているという事態が実は数多く見られるのではないか。(定本 物語消費論p324)
  • どこかで不安定な何かを抱えていなかったらものを本気で描こうなんて思わない。ぼくだって若い時はそうだった。(大学論 いかに教え、いかに学ぶかp18)
  • けれども、これは消費される小説でなくてはならない。小説がまるでキャラクター商品のように、眩暈のするような速度で屑も屑でないものも等しく消費され、消えていく、そういった現場がこの小説には必要だ。(サイコ 阿呆船 あとがき)
  • 「物語」という形式はそれ自体はただの「構造しかない」ものだとしても、だからこそその「容れ物」としての自らに「意味」を充填させることを求めてやまない厄介なものなのです。だからどんなにつまらない、そしてあからさまな「テーマ」に対して無防備です。(物語の命題p5)
  • 例えばSFまんがで、地球上の何割か死んだはずの出来事が描かれながら、たった一つの死体も描かれないというのがまんが表現に於ける<死>の描かれ方とすれば、<死>はやはり記号でしかない。(多重人格探偵サイコ1巻 あとがき)
  • ただ言ってみてるだけ。でもとりあえず言ってみよう。不毛は充分自覚しているのだから。そうやって語り始められたことばの群れが本書のはずである。全然違うかも知れんが、まあいいではないか。(定本 物語消費論p153)
  • ぼくたちが日々接する物語の「テーマ」や「プレミス」は創り手がそう意識するかしないかとは別の水準で、常にどこかにあらかじめあったのの変奏であり、そしてそれはいくつかの類型に整理できるのではないか、とぼくは考えます。(物語の命題p15)
  • 重要なのは結局のところ「描き手」である物は「条例」など知ったことではないと、それぞれの表現を貫けばいいし、読者はあらゆる手段を講じてそれを支える、ということに尽きます。(web新現実p28)


-あ~お,
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