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ダライ・ラマ14世の名言

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ダライ・ラマ14世

第14代のダライ・ラマである。法名はテンジン・ギャツォ

世界的に著名な仏教指導者の一人であり、チベット仏教のゲルク派において最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な長ではなく、ゲルク派の教勢が伸長して他派との摩擦が生じた時代に事実上の最高指導者となった学僧ゲンドゥンギャムツォ、そしてその転生者に認定されたスーナムギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転生系譜であったが、1642年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響力をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった。
一方、現在のダライ・ラマである14世は亡命後にチベット人全体の政教両面の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意見もある(#チベット仏教内の関係参照)。また、本人は「自分は一介の比丘にすぎない」と語ることが多い。
世俗的な称号としては、パリ名誉市民、名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)などがある。

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「なぜこの家族に生まれてきたんだろう」と疑問をもしあなたが持っていたとしても、前世あるいは前々世を調べることに意味があるかというと、あまり意味はないと思います。だって、もう生まれてしまったのですから、今さらどうしようもないじゃないですか。



「縁起」とは仏教の用語で、何事にも相互の縁があり、関わり合って存在しているという教えです。地球の温暖化、家族との関係、個人の健康、さまざまなものにこの考え方があてはまります。私たちはみんな、お互いにつながっているのです。



「許し」についてお話しするとき、まず、「forget(忘れる)」と「forgive(許す)」は全く異なるということをおさえておかなければなりません。「忘れる」と「許す」は似ているようですが、違うものです。



「思いやりによる許し」が世界には必要です。



「死」はすべての人に訪れます。「死ぬ時期がくれば、だれもがその時期をうまく乗り越えられる」ということです。



「死」も私たちの人生の一部なのです。始めがあれば終わりがあります。花が咲いて枯れるのと同じように、私たちの人生には誕生があり死があります。



「本当の自分」は、私たちのどこかに形あるもの、変わらないものとして存在しているのではありません。あなたの心と体を作っている要素のすべて、目や鼻や口、手足などの体、変化し続ける心などに「私」「本当の自分」という名前を与えたことによって、今ここに存在していると言うことができるのです。



「本当の自分」は形もなく、つかまえることはできない。そして、刻々と変化し続けているものだと言えるのではないでしょうか。



1965年から私は肉食をやめてベジタリアンになったことがあります。ベジタリアンとして二年間余りを過ごしたことがありますが、胆嚢の調子が悪くなってしまったのです。チベット医学に基づく医師も、西洋医学に基づく医師も、「以前どおり肉を食べる食事に戻したほうがよい」とおっしゃいました。



あなたが常にオープンであり、あるがままであれば、周りの人との信頼が生まれます。信頼が生まれると本当の友情が生まれます。



あなたにひどいことをしてくる相手であっても、きっと、あなたと全く同じように苦しみにあえぎ、幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいるのです。相手にも、「望まぬ苦しみ」が存在しているのだと理解することができたなら、相手に対する怒りの心も少しは鎮まっていくのではないでしょうか



あなたは人生の目的は何だと思いますか?私はいつもみなさんにこういいます。「そんなに哲学的に考えずに簡単に考えてみなさい」と。「幸せな人生」、これが私たちの生きる目的だと思うのです。



アルバート・アインシュタインは「仏教は近代科学と非常に相性がよい」と言っていますし、西洋の仏教学者は、「仏教は宗教ではない。心の科学である」と言います。それは私も正しいと思います。



ある種の苦しみ、たとえば生、病、老、死は避けることができません。私たちにできる唯一のことは、その恐怖を少なくすることです。そして、夫婦喧嘩から破壊的な戦争まで、世界の問題の多くは、ただ単純に健全な態度をとれば回避できます。



いつかは失われてしまうかもしれない自然の中で私たちは暮らしています。ですから、自然への敬意を忘れない日本のみなさんの考え方は非常に大切です。



インドのような国では殺人シーンはしばしばテレビに登場する。だがセックスのシーンはずっと制限されている。もし、暴力とセックスのシーンを比較するなら、セックスの方がずっとましである。われわれがセックスが人間の生命の一部でないように振る舞うなら、それもまた有害なことだと思われるのだが。



おいしい料理を作って食べたいと思うときには、そのおいしい料理の調理法をしらなければ食べることはできません。その意味を知ることが大切であり、意味を知るためには勉強をする、学ぶということが何よりも大切な要素となります。



お金があると、人を信用できなくなったり嫉妬心が生まれるものです。兄弟や夫婦においてさえも、お金のことでケンカをしたり離婚に至ることもあります。しかし、お互いに貧しければ嫉妬もストレスもありません。物質的な富は、適切に使うことができなければ本当に幸運をもたらすかどうかは疑問です。



お金のためだけに仕事をしているのでは、誠心誠意というものは生まれません。会社だけではなく、学校でも、家庭でも、人間の社会ならどこでも同じです。



お金を与えるだけでは真の和解は生まれません。お互いに信頼し、お互いに尊敬し、誠実であってこそ本当の和解は生まれるのです。



カルマの潜在力、カルマのタネのうち、生まれ変わりを決定するのは、それらのうちの最も強いものである。そして、もし人が同じように強力なたくさんのカルマを持っているとしたら、現在に最も近い時点の行為によるカルマが働くであろう。



キリスト教信者として仏教に信心するということでも、全く何の問題もないと思います。少し問題になってくるとすれば、たとえば修行が進んでより上の段階になってきた場合、キリスト教と仏教では多少、哲学的なものの考え方が違うということでしょう。



ことなった宗教、ことなった文化、ことなった言語、ことなった人権、そうしたものは重要なことではない。高い教育を受けているか、あるいは無学か、金持ちか貧乏か、そんなことに何のちがいもない。私は自分の心を開いて、人々はすべて自分の古くからの友だちだと考えることにしている。



この世界に存在しているすべての宗教が教えていることは、究極的には同じだと私は思います。哲学的に見るとさまざまな違いがそこに存在していますが、愛や慈悲の心、そして忍耐、許しの心が必要だということは、どの宗教でも全く同じだと言えるでしょう。



すべての生き物は本能的に幸福を求め、苦しみを嫌うということを確認するのに、長い時間考える必要はありません。昆虫でも、苦しみをのがれ、心地よくいようとしないものは一匹としていません。人間はそれにくわえて思考能力をもっています。



すべての問題に対処できるようになるには、私たちの心と体の基本である土台を安定したものにすることが大切ではないかということです。つまり、常に自分がゆったりした心で自分自身を信じることができ、そしてほかの人たちのことも信じられるという状態です。



セックスや暴力のイメージは最初のうちは何かしら高揚感をもたらすものである。だが、もしそのようなシーンを見つづけるなら、どのような益もないことをあなたは思い知るだろう。



そこがどんなに裕福な家庭であろうと、非常に劣悪な環境であろうと、あなたが生まれた家族の中で「よりよい家族をつくろう」「より幸せになろう」とすることです。子どもであっても家族に貢献することは充分できます。より温かい家族関係を作るとか慈悲の心にあふれた家族を作ることができると思います



たとえ自分の嫌いな人であっても、自分の敵であっても、その相手に対する慈悲の心を育てていくことができます。もちろん、最初は非常に難しいことです。意図的に自分の心を訓練することで、どのような人であっても必ずできるようになるはずです。



チベットの人たちは虫がいたらそっと手の中に入れて外に出してやります。不殺生、非暴力の教えはそのように根付いています。



テレビや新聞は善くないことばかり報じていると私は感じる。殺人などの悪い出来事はただちに報じられる。愛情によって見守られているようなものについてはどうだろう。われわれは愛情から出たすべての活動を無視してしまう。どうしてかといえば、こうしたものは当たり前だからである。



どこへ行こうと、いつ何時他の宗教を信仰している誰と会おうと、私は彼らの実践を深く尊敬し、その伝統を心より尊重する。



トラブルメーカーと呼ばれる人はどこにでもいます。しかしまた、あるとき突然、その人といい友達になる可能性もあるのです。自分の考え方次第で状況は変わります。自分のネガティブな考え方を減らすことができれば、みなさんの心の平安が増えるはずです。



ひとつの希望が満たされなかっただけで、完全に押し潰されたように思い込み、絶望してしまいがちな人たちに会ったことがある。だが、私が信じるに、人間の心とはずいぶんと複雑なものである。私たちは実に様々な希望を抱いているが、ひとつの特定の希望にすべてを託してしまうのは危険過ぎる。



ひとりひとりが世の中やすべての人に対する責任を持っています。自国や自分のことだけを考えているような時代は、もうとっくに終わっているのです。



ほかの人があなたにネガティブな態度をとったとしても、みなさんは自分を失わないようにし、相手にポジティブな態度をとり続けることです。すると相手の態度も少しずつ変わってくるでしょう。



ほかの人たちのことを理解しようという考えを持ってください。自分が「幸せになりたい」と思っているのと同じように、ほかの人も「幸せになりたい」と思っているのです。自分と他者は同じなのです。そう思えば、他者をだますことも、危害を加えることもできないはずです。



もし、体の表面に腫れや吹き出物があれば、それは肉体がどこか病んでいるからである。腫れや吹き出物といった兆候を手当てしても十分ではない。もっと深く観察し、主たる原因を発見しなければならない。根本的な原因を取り除くように努めるべきである。そうすれば、兆候は自動的に消滅する。



もしも、人が自分の属するコミュニティーの中だけで、他のものに全く依存しないで、満足と充足を得ることが可能だとしたならば、世界の中の他のコミュニティーと全く関係を持たないでいられるならば、偏狭な心、人種差別などの謝った観念も成り立ちえると主張することができるだろう。



もし恐怖を覚えるだけの根拠がないなら、分析的に瞑想することだ。それが恐怖を軽減してくれるだろう。これが適切な方法である。



もし若者が勉学に全精力を注ぎ込んで勤しまなかったら、あとになってそれを補うのは不可能でしょう。私自身の経験からもそう言えます。私は勉強に身が入らず、努力しないことがありました。このときに何かをのがしてしまったと、いつも自分に言い聞かせます。



もし憎しみの感情などがわれわれを導いたなら、われわれはとても残酷になれるし破壊的にもなれる。しかし、その反対に、われわれが人間の美質を磨くなら、すばらしい行動、見事な事業がなし遂げられるのである。メディアは両方を見せるべきだろう。



もし誰かが空を理解しようと打ち込んでいたとしよう。それも自己の心の慈悲心を育てることに注意を払わずにである。そうすると、実際には低い次元のものが実現してしまう。



われわれは突然何かの考えや感覚に捉えられることがよくある。たとえば、恐怖の感覚などである。もちろん、もし恐怖を覚えるだけの理由があるなら、その恐怖は正しい。恐怖は何らかの予防措置を生み出してくれる。だから、それは正しいのだ。



われわれ自身のコミュニティーの平和、幸福は、他のコミュニティー、他の社会の幸福や利害と深く結びついている。このような複雑にからみ合った現代社会では、偏狭な心や人種差別などが正当性を持つ余地は全くない。



愛情が欠けていると、私たちは生きていくことができません。肉体的にも精神的な面においても、より成熟した人間として成長するためには愛情が必要なのです。



偉大な先人たちは、元々はまるで教育を受けていない人たちである場合もあるし、絶望に陥った場合もあり、日々の暮らしにも事欠いていたような場合もある。しかし、彼らの決意と自己の能力に対する自信との結果、最終的に彼らは非常に高い境地に到達しえたのである。



意味のある、真実にあふれた人生をおくってください。常に正直であり、非暴力をつらぬき、真実であり、慈愛にあふれ、人を思いやることです。これが意味のある理にかなった人生だと言えます。このような生き方をして後悔するでしょうか。



一個人の将来は他の多くの人々に大きく依存しているのだから。問題の一部は、他者の存在、文化に対する知識の不足からきている。また世界の存在の本質、もしくは現状に対する理解不足からきている。



一日一日、少しずつの変化を続けることこそが、より大きな変容をもたらす基礎になっていくのです。努力をしていくことによって心の変容をもたらすことができます。心によき変容をもたらすにはたくさんの時間がかかるわけです。生まれたばかりの赤ちゃんは生まれた翌日に急に大人になることはできません



仮にあなたが無信仰であったとしても、また、筋金入りの無神論者であったとしても、あなたの人生の目的を考えてみれば、あなたの人生が単純に金と大切な人だけのためにあるのではないことがわかるはずだ。



何らかの宗教を信仰しておられる人たちは、それはそれで大変素晴らしいと思います。そしてもちろん無宗教の人も、何の問題もないと思います。信仰心を持っている持っていないにかかわらず、すべての人は同じ人間であるという立場で、お互いに心から敬意を表することがとても大切なことです。



何百万もの人が飢えているアフリカでは、武器は手に入るが食料は手に入らない。この地域こそ本当の援助を必要としているのに、何百万ドルもの資金が武器の購入に消費されている。これは悲しむべきことである。



過去を考えず、未来を見てください。



我々が生きている間に「いかに生きるか」ということが重要になります。いかに意味のある生き方をするかということです。意味のある生き方をしていれば、死が訪れても後悔することはありません。



喜びと苦しみは、知覚と内面の充足にもとづいています。私たちにとっていちばん大切なのは、内面の充足です。それは人間特有のものです。いくつかの例外を除いて、動物には不可能です。この充足の特徴は平和です。



幾多の宗教が起こって以来、長い年月が経過している。そのため、宗教のある面は、多分、時代遅れになっていると私は考えている。だが、そのことは全体としての宗教が現代世界で効力を持たなくなったことを意味しない。したがって、仏教を含む様々な宗教の本質を見つめることが大切である。



恐れと同じように、人個人の心の中にはたくさんの希望がつまっている。たとえひとつの希望がついえたからといって、それはすべての希望がついえたことを意味しない。



血みどろの惨劇にわれわれは驚く。われわれの自然な状態がそんなものではないと思うからである。だが、その結果、多くの人々は人間の本性は悪であるとの印象を抱くようになる。テレビでこのような人間の悪い要素を見る子どもたちにとっては特に、これは心理的に非常に悪いことである。



現実は目に見えているよりもずっと複雑につながり合い、依存しあっています。見えている物だけでピンポイントに物事を考えてしまうことは現実的ではありません。



個人が真理に対する洞察力を深めれば深めるほど、その人の慈悲心、利他心は大きくなる。なぜなら、生きとし生けるものは真理への無知ゆえに、輪廻の輪を巡りつづけることを、知ることになるだろうから。



幸福の形態はたいへん変動しやすいものである。



広いゆったりとした心で他者のためを考えること、他者の役に立ちたいと考え行動することができたならば、健康な心を得ることができ、苦しみからも解放されていくことでしょう。



今のあなたを以前と比べてみてください。十年前、十五年前と比べたらきっと何か変化があったはずです。愛や慈悲の心も、以前から比べればより高まっているのではないでしょうか。仏陀ご自身も、気の遠くなるような本当に長い時間をかけて修行を積まれました。その結果、悟られて仏陀となられたわけです



殺人や、ボスニアの状況は、ただちにわれわれの心を打つ。だが、汚染など環境問題は、このような心を打つものが欠けている。少しずつ、毎月、毎年、事態は悪化して行く。それがいったん誰の目にも明らかになったときには遅すぎるかもしれない。



子供に関していちばん大切なことは、もっとも広い意味で、その教育が万全のものであることです。教育とは知識の習得にとどまらず、人間としての本質的な資質の促進を意味します。



子供のときから、なかよくして、助けあうことを学ばねばなりません。ささいな喧嘩とかもめごとは避けられません。しかし大切なことは、それを水に流し、恨みに思わないことです。



子供は、簡単になかよくなります。一度いっしょに笑えば、もう友だちです。相手の仕事や人種を問うこともありません。大切なのは、相手も私たちと同じく人間であることを知り、おたがいに絆を結ぶということです。



子供時代に、知性は開花し、心は質問であふれます。この強い知識欲が、私たちの開花の源です。世界に興味を持てば持つほど、ものごとがなぜ、どうしてそうなのかと探求すればするほど、私たちの意識は明晰になり、率先的になります。



私が思うに数百万年以内には宇宙の終焉は訪れないであろう。



私が生まれてきた以上、少なくともやはり何か人のためにできる、そして生きとし生けるもののために役に立てる、そういう人生でありたいと私は思っています。



私たちが本当に育てなければならないのは、「偏見」が一切存在しない愛です。相手が自分に対してどのような表現をしてくるかによって心に生じる、一過性の感情ではありません。たとえ相手がどのようなことを自分にしてきても、相手に対して持つことのできる種類の愛情なのです。



私たちが本当の愛情を育むためには智慧が必要とされます。智慧に支えられて初めて、私たちは命あるものすべてに対する愛情を育んでいくことができます。



私たちの苦しみの多くは、私たちが考えすぎることに由来します。同時に、私たちは健全な思考をしません。私たちは、私たちにとって、そして他人にとっての長期的な利点と不都合を考えず、当座の満足にしか興味を示しません。こうした態度の結果は、いつも結局、私たちの身に降りかかってきます。



私たちの人生は希望に基づいています。希望とは「何かいいこと」です。明日幸せになるという保障はありません。来年もっと幸せになる保障もありません。しかし私たちは「これから何かいいことが起きるといいな」と希望しています。



私たちは「何かいいこと」を期待し、イメージして暮らしているのです。希望を持つことで私たちの人生は維持されていると言ってもいいでしょう。希望を失えば命を縮めてしまいますし、全く希望を失った人は自殺などを考えてしまいます。



私たちはみな、生まれたときから同じ人間です。国王も栄養失調の子どもたちも、みんな同じ人間です。同じ権利を持っています。同じ潜在能力を持っています。ですから自信を持って一生懸命がんばってほしいと思います。



私たちはみなひとりの人間です。私もみなさんも、どこの国の人もみんな同じです。だれもが苦しみを望まず、幸せな人生を送りたいと思っています。単純に考えれば、どんな人も、みな同じ人間なのです。



私たちは社会的な生き物だということを忘れてはいけません。社会的な生き物には真の協力が必要です。信頼し、友情を感じるからこそ協力できる。信頼、愛情、誠意を持って協力することです。



私たちは生きていくために愛情を必要としているのです。私たちは人からの愛と思いやりを本当に必要としています。人間だけではありません。動物も同じです。彼らもまた母親から生まれてきた存在であり、母乳をもらって生きています。



私たち人間は、次の世代を育てるために家族を形成します。けれども、どの家屋のもとに生まれるかは、私たち自身が決めることはできません。神を信じるとすれば、神のみぞ知るということになるでしょう。仏教的に考えるとこれはひとつの「カルマ(業)」だということです。



私にとっての問題はチベット人の幸せです。それが一番私が大切にしていることであり、心の支えにもなっています。



私の好きな祈りにこんな言葉があります。「すべての生きとし生けるものがいる限り、そしてまた多くの人が苦しんでいる限り、私はここに残ってその人たちのために生き続ける」この祈りを胸に、私は常に日々の実践を行い、祈りを捧げています。



私の人生の前半は戦争のニュースばかりが耳に入ってくる時代でした。戦争や暴力は、問題を解決することはなく、むしろ問題を悪化させてきました。前世紀の間違いがいまだに続いているところもあります。植物の種と同じで、悪い種から生まれてくるものはいい結果になりません。



私の前世はわかりません。「ダライ・ラマ」だったかどうかもわかりません。みなさんと一緒で、私も前世は誰だったかなどわからないのです。仏教徒として考えると、人間という体に生まれてきましたので、前世ではまあおそらく徳を積んだということなんでしょう。そして「ダライ・ラマ」になりました。



私は、どの宗教でももっと真剣に教えを考える必要があると思っています。お祭りや葬儀のときだけではなく、教えを真剣に考えていただきたいと思っています。それらは日々の暮らしの中に生かされなければなりません。



私はいつも若者と出会うのが楽しみです。彼らは単刀直入で真剣で、その心は大人よりも開けていて柔軟です。子供を目にして、最初の心から思うことは、その子供が私自身の子供であり、昔からの友だちであり、愛情をもって面倒を見なければいけないということです。



私はみなさんにこう答えるのです。「人生の意味は幸せになることだ」と。そして満足のいく人生をおくることは私たちの権利です。幸せな人生を実践することが、私たちの生きる目的なのです。



私は祝福を与える力など何も持っていません。本当の祝福はみなさんの手の中にあります。



私は常々、近代的な変化は単なる表面的な変化であって、深い部分では人間は変わらないと信じている。



私は誰と会っても、その人が偉大な人であるか、乞食か、ただのふつうの人か、そんなことに何のちがいも見出せない。いちばん肝心なのは、相手に笑顔を見せること、ほんとうの人間の表情を見せることだ。



私も若いころ、エア・ライフルのような武器を美しいと思ったことがある。エア・ライフルを磨くのが私は大好きだった。しかし、武器の本当の用途は殺人なのだ。なんと恐ろしいことか。



私自身は、自分のことをチベット人のためのフリースポークスマンだと思っています。ですから常にチベット問題や、約六〇〇万人のチベット人の幸せについて考えています。チベットの文化や環境がチベット人の関心事であり、私の関心事でもあります。私自身のことはどうでもいいのです。



時として人は自己過信に陥ることがあります。人間は科学や技術を持ち合わせているから、自然をコントロールできるという誤った考えを持ってしまうことがあるのです。津波も地震も、私たちにはどうすることもできません。



時には、暴力、セックスなどのシーンを、プラスの用途に役立てることができる。その忘れ難い効果によって、人間の様々な感情の破壊的な性質を忘れないようにするきっかけとすることができる。



次の「ダライ・ラマ」を探している人たちが私の生まれた村に見えたのは、私が二歳のときでした。不思議なことですが、母の話によりますと、私はいつも、「ここは私のいるべき場所ではない。だれかが私を見つけにくるんだ」と言っていたそうです。私はそのことは覚えていません。



自分が正直でいれば、相手のことを100パーセント信じることができます。相手に対してもポジティブに考えられるのです。これは宗教を信仰しているかどうかではなく、現実の世の中を見たときに、私たちが信じなければならないことだと思います。



自分のことだけを考えている人は、人をだましたり、相手を攻撃するでしょう。人をだますと自分に戻ってきます。



自分の心の中が愛情と思いやりに満ちあふれているとき、私たちの肉体面における免疫機能が高められていく効果のあることは、最近の科学者の研究によっても報告されています。



自分の領域に関しては利己的な考えを持つ人が多く、全体的な視点から考えることができる人が少ないことは、非常に残念なことです。平和を目指すときには、必ず非暴力のアプローチをそれぞれの人がとらなくてはいけません。またそれは、対話を通してしか実現することができないと思っています。



自分以外の人に対する尊敬の念、思いやりを持つということが、自分を大切にすることにつながるのです。



自分自身が愛情を持てば、自然にそれが広がり自分にも返ってきます。だれかに悪意を持ったり、害を与えようとひどいことを考えると、究極的には自分自身が苦しむことになります。



自分自身が素直でいられて、真実に基づいて行動するということが重要です。これはさらに、自信を持つことにつながっていきます。



社会とは個人の集合のことである。したがって、事の発端は個人個人から発せられる。個人それぞれが責任の観念を発達させないかぎり、社会全体は動くことができない。したがって、われわれが個人の努力が無意味であると考えないようにすることが大切である。われわれは努力するべきである。



若いころは、「私も普通のチベット人だったらいいなあ」と思うことはありました。自由があるからです。若いときはあれこれ悩むものです。



信仰があろうとなかろうと、私たちがこの世の中でより幸せに生きていくためには、愛や慈悲の心を高め、そして忍耐の心を自分の中に高めていく必要性が出てきます。みなさんは人間として「幸せを求め、苦しみを望んでいない」という意味において同じです。



心が閉ざされていればいるほど、恐れの感情は大きくなり、気分は落ち着かなくなるものなのだ。心が開かれていればいるほど、感情はいっそう落ち着くものなのだ。



心の内なる富を大切にする。これが本当の豊かさだと思います。物質的な富は、場合によっては危険をもたらします。



真の対話はお互いの心の中から生じたものでなければなりません。正直で、非暴力で、真実でなければならないのです。



親子の関係は一生続きます。親子関係は切れることはありません。親が生きている限りはその人の子どもで居続けるわけですから、自分の家族、自分の両親を敬意を持って受け入れるということが大切です。



人が真理に対する、ある程度の深さの洞察力を獲得したからといって、それが自動的に慈悲心の自然発生的な体験を保証してくれるわけではない。それはなぜかというと、真理に対する人間の洞察力は、誰か他人を助けたいとする利他的な願いによって動機づけられうるからである。



人は、うちひしがれたり、希望を失うことが、状況を決して好転させてくれないことを、肝に銘じなければならない。



人間は、今日であろうと、何百年、千年、四千年、五千年前であろうと、基本的には人間である。もちろん、文化や生き方は大きく変化してきた。だが、それでもなお同じ人類である。だからこそ、幾多の宗教が、人間の基本的な苦しみや問題と取り結んできたのだと私は考える。



人権問題の取り組みに、新しい展望を抱いていることに勇気づけられる。これは健全にして正しいことである。だが、人権侵害やこの種の問題は、病気の兆候のようなものだと私は考えている。



人生に保証はありません。大切なことは、みなさんがどんな信念を持って生きていくかだと思います。私も信念を持って過ごしていきます。



人生はけっしてやさしいものではないこと、なるべく早くに自覚することが大切です。人生をよく生きるために、問題が出てきたときにくじけないために、内面的な力を身につけることは必須です。



人類は、自分たちを過激な物質主義者だとするものと、ひとえに信仰に生きるものと、ふたつのグループがあるように見える。そして、そこにはより深い考察が見当たらない。二つの世界、二つのキャンプがあるようなものである。仏教徒はそのどちらにも属さない。



世の中はすべて密接につながっています。あなたが怒りを感じるということは、いろいろな社会的なつながりから影響を受けているからなのかもしれません。目の前のことだけを考えず、それらはすべてつながっていると考えることができれば、あなたの怒りも静められるようになるでしょう。



世界が抱える環境問題や経済危機、平和の問題を、私たちは共通の問題としてとらえることができるのです。そして普遍的な責任感をひとりひとりが負っていくことで、私たちは世界が抱える問題を解決していくことができるのだと思います。



正しく思考せず、あまりにも近視眼的で、方法的にも浅はかで、広く、くつろいだ目でものを見なければ、当初とるにたらない問題も大問題になってしまいます。言いかえると、私たちは自分の苦しみの多くを自分の手で作っています。



生きている間は平和に暮らし、できるだけ人のために役立つことをすることです。人のために役立つことがもしできなくても、少なくとも人を傷つけなければ後悔することはありません。たとえよいことはできなくても、人を傷つけたり人に害を加えないということが一番重要です。



戦争とか軍人というものに対する考え方に、何か心理的な誤りが含まれているのだろう。いかなる方法によっても、われわれは軍事力を削減する試みを追求しなければならない。



全世界が、「私たちはひとつなのだ」「ひとつの人間家族なのである」という意識を持つことが必要です。「私たち」として世界全体をひとつと認識することができたなら、すべての人たちをとても身近な存在として感じることができるようになるでしょう。



争いが起こるときには、「私たち」と「彼ら」との間にバリアーのようなものがあって、「彼らをやっつければ私たちが勝てる」という間違った方程式が浮かび上がります。このような境界線を引いてしまうと、人と人との間の違いを強調してとらえてしまうのです。



相手が何か腑に落ちないことをしていると認識すると、私たちは嫌な気持ちを持ってしまいます。それをすっかりなかったことにして忘れてしまうのではなく、相手の存在を否定するのでもなく、心を開いて相手を受け入れてください。 その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことです。



相手を無罪放免にする手段ではなく、自分を自由にする手段、それが「許し」です。「許す」ことにより、私たちはさらなる希望と決意を手にすることができ、より明るい未来に向かって進むことができます。



憎しみはわれわれの敵であるが、武器もまた敵である。



大きくなるにつれて、愛情、友情、助けあいということに、あまり重きを置かなくなります。人種、宗教、国籍といったことが大切になってきます。もっとも大切なことを忘れ、どうでもいいことに重きを置くようになります。



大切なことは、常に正直であり、真実であるということです。すると、あなた自身が透明性を持つことになる。オープンになるということです。



大切なのは、何か葛藤が起こったとき、どのように問題を解決するかなのです。権力や武力を用いずに解決する。それが対話であり、和解です。



誰かが苦しんでいる、あるいは、絶望的な状況にある、そのような中にあなたは巻き込まれており、あなたはその人を助けることもできるし、その人から苦痛を取り去ることもできる。それにもかかわらず、あなたが何もしないというのなら、そこにはカルマの帰結が存在しえるだろう。



朝は三時半に起床し、夜は九時に就寝します。食事は一日に二回、朝食と昼食です。ときどきお腹がすいてビスケットなどを食べることもあります。そのほかはお経を読んだり、瞑想をしたり、僧侶としての修行に時間を費やしています。



鳥もそうです。鳥は卵として子どもを産むわけですけれども、その卵からひながかえったとき、母鳥は、ひなを育てるために心を込めてひなたちの面倒を見ます。たとえ動物や鳥であったとしても、その子どもが育つために、愛情は欠かせないことが理解できます。



怒りを感じると感情が高まり、ネガティブな連鎖が起こります。怒りはまた新たな怒りを生むのです。



同じ状況のカルマがいくつも存在するとしたら、そのうちその人が最もなれ親しんだ行為によるカルマが働き、その人の生まれ変わりを決定することになる。また、死に際しての心の状態も、生まれ変わりを決定する要因のひとつである。



特定の宗教的実践とは、礼拝し、真言をとなえ、愛と慈悲心について瞑想し、真理の究極の本質である空について瞑想することである。



内なる心の平和は考え方ひとつで変えられます。チベット人はとても貧しい。難民ですからね。物質的な観点から考えれば限界があるけれど、私たちはとても幸せです。



内なる豊かさ、智恵、慈悲、知識というものは、私たちに必ず益をもたらします。



難民としてチベットを離れて以来、私は他の宗教、文化とより密接に接する機会を得た。主に個々の人間を通じて、私は他の価値観に対するずっと深い理解を得ることができた。その結果、今の私の対応は、すべての宗教は正しいというものである。



二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀と、この宇宙がより平和に、より慈悲と幸せに満ちた世界になっていく可能性は大いにあると思います。ただ、それは、現在生きている私たちの努力とビジョンにかかっているのです。



二十世紀前半は自分たちの環境を守らなければならないとは認識していませんでした。ひたすら消費し、自然資源に限界があることすら考えていませんでした。しかし今では、世界各国で環境を守るための努力が行われています。二十世紀には多くの苦難を受けながらも、私たちは成熟してきたと思います。



日本には長い歴史があり、日本古来の宗教「神道」というのがありますし、日本のみなさんは自然に対する敬意をお持ちです。これは非常に重要な点だと思います。



日本は第二次世界大戦で多くの被害を受けました。広島や長崎は、原爆の被害を受けました。被爆経験があるのは日本人だけです。だからこそ、この世界を引っ張っていくために、原爆や核に反対する声をあげることができる人たちだと思っています。



貧しいからといってフラストレーションをため、怒りにかられて暴力をふるうことは今すぐおやめなさい。不満に満たされ、怒りにかられるのではなく、きちんと勉強することです。そして自信を持ちなさい。



富と伴侶はあなたのしあわせ、充足感には絶対必要な条件であるが、しかし、それらは幸福、満足を得るための唯一の条件ではない。ただの一筋に執着し、全エネルギーをそこへ傾注するのは意味がない。なぜなら、あなたのしあわせな、満たされた人生の実現に必要とされる唯一無二の条件ではないのだから。



富や名声などは心に平和をもたらすものではない。



仏教が私にいちばん向いていることは疑いない。しかし、それは仏教がすべての人にとって最善であることを意味しない。人はそれぞれことなった心的特質を有している。したがって、ある人にとっては、特定の宗教が他の宗教よりも適切であるし、より効果的であるわけである。



仏教ではすべての現象を三つに分類する。第一は、直接に観察できる現象。これらはわれわれが直接経験できるし、それらとかかわり、理解することもできる。第二は、論理的なプロセスによる推論を必要とするような現象。第三は、究極の不在の現象、空のことである。



仏教とは、霊的なものと哲学的なシステムが組合わさったものだ、と定義できると考えている。しかしながら、仏教では信じることよりも、理性、知性にはるかな重みをおいている。



仏教は単にこの人生、現世だけを取り扱うのではなく、もっと不可思議な生命の局面にも関心を払っている。われわれのこの世界が近代化されたのと似たタイプの近代化が存在の領域に起こることなしに、仏教はその有効性と妥当性とを保持しつづけると私は思う。



仏教は仏教科学、仏教哲学、宗教としての仏教と三つに分けて考えられますが、仏教科学と仏教哲学はだれとでも共有することができると思っています。



仏教徒が霊的なものを得るには、信心と知性の力が同等に働かなければならない。



仏陀が仏陀だということだけで、仏陀の証言を盲目的に受け入れるものではない。そうではなく、仏陀の言葉は、現象の流れの中で、また、論理的な理性と理解力にもとづいて吟味分析される出来事の中で、信頼できる証明されたがゆえに、われわれはそれを受け入れるのである。



物や設備など、環境が整ったところで生活をすると、肉体的、物質的にはとても快適な生活が得られます。けれど、そうしたものは、私たちの精神的なレベルでの心の平和や幸せをもたらすことはできません。愛情と慈悲の心、つまり優しさと思いやりを持って毎日を暮らしていくことが非常に大切です。



物事を曲げて伝えること、間違った物の見方が転生の否定につながるゆえに、それが解脱の達成の可能性を否定するがゆえに、仏教ではこれを十悪に数えている。転生、解脱などは仏教徒にとってはかけがえのない思想である。



勉強をすることによって、初めて私たちは自分の心の中に少しずつよき変化をもたらすことができます。どうすればよいか、どのように心がければよいか、どのように努力すればよいかをあなたが考え、学び、実践し続けることが大切です。



母親の本能的な愛情を種として、智慧によってその愛情をより高め、より広く育てていくことが必要です。



豊かであると懐疑的になってしまい、どうしても人と距離をおくようになるかもしれません。すると、なかなか真の友だちが作れなくなる。「私がお金持ちだから人が寄ってくるのではないか」などと考えてしまいがちです。逆に貧しいときのほうが、真の友情を築けるのではないでしょうか。



豊かな人たちが貧しい人たちに必要な物を与え、健康や教育などに手を貸すことによって世界はよくなっていくと思います。



毎日生きていく上で、人とけんかをしたり、あるいは人をだましてしまったり、いろいろ嘘をついたりしてしまうこともあるでしょう。そうした日常生活をよりよくしていくためには、やはりすべての人に、愛や忍耐が必要となってくるはずです。



問題解決として重要なのは、フェイス・トゥ・フェイスで、顔を向き合わせて話し合うことです。




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