手塚治虫の名言


手塚治虫

手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)

日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。
医学博士。
血液型A型。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。
兵庫県宝塚市名誉市民。

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。
1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。
1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。

1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。
また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。
デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。

藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝などをはじめ数多くの人間が彼に影響を受け、接触し漫画家を志した。

長男に映像作家の手塚眞、長女にプランニングプロデューサーの手塚るみ子、次女に女優の手塚千以子がいる。
また、姪は声優の松山薫。

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「これでどうだ」って意識的にやっちゃうと、もう絶対に当たらないですね。

「ダメな子」とか「わるい子」なんて子どもは、ひとりだっていないのです。
もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたらそれはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神が貧しい。

「一期一会」という茶道の言葉があるが、見知らぬ人との出会いが、自分の人生にいかに大きくかかわっていくか、そしてそれはどんな大きな宝であるかを、この転機に知った。
(虫プロの倒産の際に語った言葉)

「荒唐無稽」とか「夢の中」にこそ、日本人の忘れていたものがある。

「正義」の名のもとに、国家権力によって、人々の上に振り下ろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたい。

「変形・省略・誇張」という3つが、落書きの要素であると同時に、マンガの要素である。

<大学生への3つ直言>
1、学ぶべきことに貪欲になれ。
2、本を読みあさり、論説や評論を読む習慣をつけよ。
3、中途で放り出す人間になるな。
体力と根性をつけよ。
ダサいグチごとと取るか否かは諸君の自由だが、少なくとも国際的に通用する大学生になりたまえ。
どうかしっかり頑張って。

20代の時は無我夢中で遮二無二描き、30代の時はかなりプロ意識をもって描き、40代にはマンガ世代の心理を模索しながら描きました。

40年間負けん気でもってたみたいなもんです。
逆に言うと、劣等感や怯えがあったから、続いたともいえるんですね。

あと40年ぐらい書きますよ。
アイデアだけは、バーゲンセールしてもいいくらいあるんだ。

アトムは完全じゃない。
なぜなら、悪い心を持たねぇからな。

アトムは信念を持って行動し、決してあきらめたりしない。
時には、どう考えても勝ち目のなさそうな相手にもぶつかっていく。
アトムは自分の中にある「子供」そのもののイメージであり、同時に願いでもある。

アニメは万人に向ける、メッセージでありたい。

いいものは売れるんです。

いろんな街の路地裏には、さまざまな人生の味気がしめこんでいる。

インプットがないのに、アウトプットは出来ません。

オヤジの役目というのは、その生きざまを子供に見せてやることだと思う。
子供がオヤジの行動に感動すれば尊敬するだろうし、尊敬しないまでも条件反射的に、その行動をなぞっていくものだろうと思う。

この世界は読者に飽きられれば、いかに大家であろうとキャリアがあろうと、お終いなのである。

たった一個の土偶や捨てられた貝殻のひとつから、百千のバラエティに富んだ古代史が読み取れる。

どんな仕事にしろ、プロの道は険しい。
一人前に食べていけるプロだと、自信を持って言える人間になるには、道楽や片手間にやる程度ではダメなのだ。

なにか謎があって、その謎を調べないと気がすまないという気持ち。
この好奇心を持ち続けている限り、人間は生き甲斐を感じるのではないか。

バリエーションとしてのマンガは、その時その時の花みたいなもので、どんどん咲き代わっていく。
しかし、樹そのものは枯れません。

ひとつのものがずうっと、定着してしまっているということは、逆に不安定で、ぼくに言わせれば「死んだ芸術」ですよ。

ファンタジー作品は、論理的に解釈されるべきものではない。

プロというのは、何も無いところから出さなきゃダメだ。
引き出しを開けたら何もなくても、締切りは迫っている。
そこで、無から有を生ずるのがプロですよ。

プロならば与えられたページ数で、描きたいテーマを描ききらなければならない。
ページ数が足りなくなるというのは、技術が未熟なんです。

ぼくがはっきり胸を張って、創造したといえるのは、マンガに悲劇の要素を持ってきたということ。
(※マンガに悲劇の要素を組み入れたのは、手塚治虫が最初と言われています。

ぼくがマンガを見て美しいと思う要素の中に、空白の美しさというものがある。

ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。

ぼくという男は、感動した映画なり小説なりを、恥も外聞もなく自作に組み込んでしまう、悪いクセがある。

ぼくには「あしたのジョー」は描けないし、「巨人の星」も描けない。

ぼくのマンガというのは教科書なんですよ。
教科書というのは、読んでワクワクするほど面白いもんじゃないし、面白すぎても困るわけ。
若い連中がそれに肉付けして、素晴らしい作品を作ってくれることが望ましい。

ぼくは「火の鳥」を、日記だと思ってるわけ。

ぼくは泣いたんですよ。
あんなに心の底から泣けた日はなかった。
(終戦の日の夜を振り返っての言葉)

ぼくは人のやらないことを、やりたがる欲があるんです。
そして人にマネさせるのが楽しい。

ぼくは読者の人気投票に怯えてるんです。
ベスト10、というよりベスト3に入ってなきゃならないんです。
でないと仕事にも、それにプライドにも関係してくるわけでね。

マンガというものは、もっと無責任でいいと思う。
そこまでマンガを深読みすることないと思うんですよ。
イデオロギーに沿って描いたって、絶対に面白いものは生まれない。

マンガ家にモラルはいらない。
批判精神だけあればいい。

もし火星とか木星あたりに生物がいることがわかった時にそこでひとつの生命体同士の連帯感みたいなものが、地球人に生まれてくるんじゃないか。

やたらに人の首が飛んだり、手がとんだり、血が流れたり、そういったものを果たして、子供に見せるべきなのか。
私は絶対反対なんです。

わたしの漫画は絵ではない、記号の集合体である。

医学の「進歩」も、自然破壊の一種かもしれない。

井の中の蛙を決め込んでいるのは、敗北だと思う。

一生に一本でもいい。
どんなに苦労したって、俺のマンガ映画を作って、この感激を子どもたちに伝えてやる。

一攫千金は偽りの成功。
真の人生の勝負は、じっくり腰を落ち着かせてかかるべきだ。

円周率とか1、2、3、というのは、地球だけの真理であって、宇宙にはそれとは違う。
まるっきり想像を絶した、知識の体系があるかもしれない。

仮病は、この世でいちばん重い病気だよ。

何より重要なのは、ハングリーな気持ち。
常に何かに飢えている緊張感が、ぼくの健康を支えている。
もうこれで十分満足、と落ち着いた途端にスタミナが切れて、ダウンしてしまう気がする。

家庭の温かな雰囲気は敏感に作品に出るものだ。
家庭が暗いと楽しいものが描けないし、作品が荒れる。

我々はこの膨大な情報量を、全部飲み込むのではなく、どれが自分に必要かを判断する、テクニックを身につけなければならない。

技術的なことよりも、日本の映画人になによりも欠けているのは、「アイデア」。

教師の放つ子供への言葉の力というのは、よくも悪くも深く作用する。

駆け出しのマンガ家は、絵も拙く、表現も生硬だが、感覚だけは強烈な武器となる。

空想だけは、空腹や金と無関係にできる、唯一のものだった。
(敗戦直後を振り返っての言葉)

君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。
一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。
そして、それから自分の世界を作れ。

経営者としては、確かに負けたかもしれない。
でもマンガ家としては、何も失っていない。
(虫プロが倒産した時の心境を聞かれて)

結局のところ、引き出しが3つか4つぐらいしかない。
時々ほかの引き出しを開けるけど材料は同じ。
そこから引っ張りだしたものに、気に入られそうな味付けをして発表しているだけ。

権力や圧力の庇護があって、マンガ家はなにができようか。

現在の日本の教育ほど、うわべは百花繚乱の様相を呈しながら、実は根なし草の教育はない。

現代の教育は、どこか衰弱しているというか、勘違いでもしているよう。

好奇心というのは道草でもあるわけです。
確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。

合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。

国際的に通用しないエンターテイメントは、子供に対してマイナス以外の何物でもない。

今ここで自分が描かなければ、誰が描くんだろう。

今は失われてしまったそれらは、しかし、決して取り戻せないわけではないのです。

今世紀(20世紀)の芸術作品といわれるものは、たいてい圧政や迫害の中から、レジスタンスとして生まれてくる。

今日素晴らしいアイデアを思いついた!トイレのピエタというのはどうだろう。
癌の宣告を受けた患者が、何一つやれないままに死んでいくのはばかげていると、入院室のトイレに天井画を描きだすのだ。
浄化と昇天。
これがこの死にかけた人間の、世界への挑戦だったのだ!(亡くなる約一カ月に書かれた日記の、最後のページに記した作品アイデア)

根底にあるものは、人間への、地球への愛です。
愛こそ、マンガで作り出せる、メッセージの根元でなければならない。

最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。

作られた自然に、虫たちをわざわざ持ってこようなんていうのは嫌いです。
虫のほうから自然に寄ってくるような空間でなければ、絶対ダメだと思います。
(都会に樹木を植える日本に対しての言葉)

作家は無個性のほうが長続きするんですよ。
ひとつの鋳型に入れられちまうと、逆にそれに合わせなきゃいけないような気になってしまう。

仕事に強い信念と情熱を長く持ち続けられる女性。
しかも世の中すべてに、やさしい愛を注げる心の広い女性…。
それをぼくは望みます。
(エッセイ「若い女性へのメッセージ」より)

子供たちが肉体的・精神的に弱くなったのは、社会のせいでも、学校のせいでもない。
ひたすら家庭の、親の責任である。

子供と対話する時は親子という関係より、社会人としての先輩、後輩という立場で、社会一般の知識を教えることを大事にしています。

子供にとってのひとり旅は、リクリエーションではありません。
教育であり、しつけです。
きびしい試練でなければなりません。
しかもその裏には、保護者のやさしい心遣いもなければならないのです。

子供の空想ほど、ファンタスティックな世界はない。
それは不条理が当たり前の世界だから。

子供の純粋な興味を阻害してはいけない。
その興味の変化に対して、どう指導していくかが問題なのだと思う。

子供の夢が限りなく伸びるように、子供のための作品もいつも進歩を続けなくてはならない。
未知への探求心と得たものに対する驚異。
このふたつを的確にとらえた作品を描くことが、私たちの夢です。

子供は、その時点時点で常に現代人であり、また、未来人でもある。

子供は、親に対する建前の心がある。
教師や大人に対しても子どもの建前があるんです。

子供は、大人の真剣なメッセージを待っているし、また十分に受け止める感受性もあります。

子供をめぐる状況というのは、学校と家庭と友人、この3つに平等に培われる。
子供をめぐる問題の中で、学校の責任だとか、子供の家庭の責任だとか、友達が悪いとか、それぞれ言い分を言っておりますが、これは平等に責任があると思う。

子供達に何百ページもの長編を、時間をかけてゆっくり読ませたい。
技術教育偏重の育て方。
ダイジェスト花盛りの傾向も反省すべきだろう。
なによりも、安心してそういったものが読める、ゆとりのある世の中にしてもらいたいものだ。

時代は移り変わっても、子供たちの本質は変わらない。

自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には、必ずしっぺ返しが来る。

自然や人間性を置き忘れて、ひたすら進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくか。

自然淘汰の法則に、人間も従わざるをえない。
それはもう宿命だということ。

自分のメッセージが、少なくとも子供をリードしていないと駄目。

自分の家のすぐそばにある原っぱでくり広げられる小さな地獄の数々は、それでもタフに生き抜くことの喜びを教えてくれました。
(子供時代に自然の中で遊ぶことの大切さを語った言葉)

自分の絵が消しゴムをかけても消えない。
その時の快感たるや凄かった。
(中学2年生の時に初めてマンガをペンで描いたときの感想)

若者にとっては悲劇的な時代ですよ、青春を闘っていく対象がないということは。

終始一貫して僕が自分の漫画の中で描こうとしてきたのは、次の大きな主張です。
「命を大事にしよう!」

商売人になってほしくない。
金はないけど、その中で、本当の歓びをわかってもらいたい。

少なくとも人間の身体の、どこにどういう筋肉があって、どう動くか、という解剖学的な知識までは知っておいてほしい。

少なくとも僕にとっては偉大であり、誇るべき人であり、世の数億の女性とは、別格の人なのである。
(母について語った言葉)

親の暴力が一概に悪いとは決して言わないが、子供が納得する暴力でなければならない。
子供が親の予想以上に高い判断力を持っている事を、まずは理解しなくてはいけない。

進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくかを、描いたつもりです。
(「鉄腕アトム」について語った言葉)

人の一生とはあらしのようなものだ。
あらしのつよいときは風に身をまかせろ。
あらしのよわまったときに全力を出し進め!!

人の後をついていたら、安全というのは、この世界じゃ通りません。

人の命なんて、心配してもしなくても、終わる時には無情に終わるもの。

人を信じよ。
しかし、その百倍、自らを信じよ。

人間がどのように進化しようと、文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはない。

人間の「善」が、常に「悪」よりも先んじてほしいものです。

人間は、果てしなく賢明で、底しれず愚かだ。
この壊れやすい地球に対してどう対処するのかは、ここ百年くらいで選択が決まる。
でもこれは、やり直しのきかない、一度限りの選択になるだろう。

人間は、生きている間に、なぜもっと素晴らしい人生を送らないのかなぁ。
素晴らしい満足しきった人生を送れば、死ぬ時にそんなに苦しまなくたっていいんだろうなぁ。

人生は一人じゃない。
二人三脚で走らねばならんこともある。

図形だと思うんです。
絵じゃないんだとね。
マンガは象形文字に類する記号だと確信した途端、様々な疑問がすべて解けた。

水爆を見たまえ…。
あれは原子力の完成芸術だが、人を殺すほか役に立たないぜ。

睡眠は三日間で三時間。
こんなつらい仕事を四十年続けるなんて、馬鹿じゃないとできないですよ。

数えきれないほど、悔しい思いをしてきたけれどその度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。

生活とか生存に困難な場所に生きる生物ほど、生活力・繁殖力への渇望が強くなる。
人類の存亡が問われるような時、大変な数の人間が、超能力を発揮できるんじゃないか。

昔から人間は3つの夢を持っている。
ひとつは空を飛ぶこと。
ふたつめは変身すること。
もうひとつは動物と対話すること。
この要素を満たすものをマンガに描くと、必ず当たる。

創作者にとっては…作品のメッセージが相手に通じることほど、うれしい報酬はない。

送り手によって都合のいいように、情報は歪められ得る。

大きくなってからは、少なくとも二つの希望を持ち、二つのことを続けることです。
いろいろな条件で一つが挫折することになってももう一つは残ります。
子供から大人になるとき、社会に出るときなど、人生の選択をするときがかならずあります。
そのときに選べるものがあることは、本当にしあわせなのです。
一つしか進むべき道がないというのもいいのですが、道が広いほうがより自分に向いた道を見つけやすいとぼくは思います。

大人の目から見たら、わかりきったことと思われようが、一番大事だと感じるものを、メッセージとして送り続けてきたつもり。

誰でもやがては死んでいくこと。
寿命には限りがあること。
一生の間に精一杯の生活をすること。
そして他人の生命をおかさないこと。
(「生命ってなに?」と子供に聞かれた時に、これだけは語ってほしいと述べた言葉)

締切りなしの作業なら、思い切り楽しい仕事になるだろうが、おそらくまったく進行しないに違いない。

徳川家康ではありませんが、待ってたほうがいいと思うようになりました。
ぼくはもう4、5回そういう時代を繰り返してきてね、結局そういう結論に達したの。
じっと静観してるんですよね。
状況はまた変わってきますよ。

日本の明日を担う子供達に、こんなものを読ませるのですか?

反戦だの平和だのの政治的なお題目では、子供はついてこない。
率先して生命の尊厳から教えていく姿勢が大事。

物語は、ここから始まるのだ。

僕の体験から言えることは、好きなことで、絶対にあきないものをひとつ、続けて欲しいということです。

僕は昔、一年に三百六十五本、映画を観ることに決めていた。

本当の「ストーリー」というのは、ドラマの起伏とその中の、人生観が描かれてなければならない。

漫画ってのは、誰かに読んでもらわないと、意味がないんだよ。

漫画の含む笑いの要素は、いちばん高級なやつでなければならない。
猿の笑いと一緒くたでは困る。

漫画家は、3つの武器を持っていなければならない。
(ジャンルの違う作品を3つ描けなければいけないということ。
)

名声も財産もできてあぐらをかいてしまうと、逆に面白くなくなるわけです。

幼い子供が怒られるようなことをしでかした場合、それが不器用なための過ちなのか、未知への探求欲のためなのか、破壊本能のためなのか、完全な悪意によるものなのか、大人は知る必要がある。

幼い日の我々を育んだ、素朴で温かい手作り文化をもう一度復活させて、子供たちに手渡してやりたい。

-アニメの名言, た~と,
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