ミヒャエル・エンデの名言集

2014/04/22


ミヒャエル・エンデ

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月29日)

メルヘンのお膝元、ドイツの児童文学作家

ドイツ南部のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれた。
父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。

日本との関わりは深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子 (翻訳家) 佐藤真理子と結婚している。
又、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる貴重な多くの資料が収集されている。

ミヒャエル・エンデの作品は岩波書店からエンデ全集が出ている。

『ジム・ボタンの機関車大旅行』 ”Jim Knopf und Lukas der Lokomotivfuhrer” 1960年 (この作品をベースにしたTVアニメ作品がある)

  • ゲーテが「お前は、再び茂みと谷を満たし…」と呼びかけた月と、二人の宇宙飛行士が降り立ってフワフワと歩きまわった噴石と塵の塊とは、同一の天体ですか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • 一般に、君が先入観をもたず対応するのを、人は好まない。君が先入観をもっていることを人は望む―かれらの先入観を。 『エンデのメモ箱』
  • 自然に対して畏敬の念を持って問いを発したなら、やはり畏敬と尊敬から生まれる答えを自然は返してきます。けれども、私が自然界に歩み寄って、まるで金庫の鍵をグッと開けるようなやり方で対したなら、結果として犯罪的な答えが返ってきます。 『三つの鏡』
  • 私は、古い形の宗教性や、古い形の文化や社会に立ち戻ることによって、物質主義や唯物論を克服しろ、と主張するわけではありません。私は、唯物論は本当にそれをその最終的帰結まで考えつくすことによってのみ克服できる、とするものです。 『エンデの文明砂漠』
  • 法的に見て、銀行券とは何なのかを私たちはまるで知らないわけです。定義は一度もされませんでした。私たちは、それが何か知らないものを、日夜使っていることになります。だからこそ、「お金」が一人歩きするのです。 『エンデの遺言』
  • 知覚と思考は、人間の意識全体の基礎です。私たちは思考で持って思考の後ろに達することはできず、知覚で持って知覚の後ろに達することはできないのです。私たちがそこで見出すものは、どこまでいってもまた、知覚でしかないのです。 『エンデの文明砂漠』
  • カフカの日記に次のような、妙な記入がある。「キリスト―刹那」。これはパラドックスのように響く。"今、ここ"にだけ非時間的なもの、永遠に創造的な物、唯一人間を真に自由にするものがあらわれる。 『エンデのメモ箱』
  • もし人間の意識が本当に大脳中の電気化学的プロセスなのだとしたら、このいま行った命題を教壇で口にするときにも、それは自分の大脳内の電気化学プロセスだ、ということに他ならないのです。すると教授自身、とても説明のしにくい状況に陥るはずです。 『三つの鏡』
  • ユーモアは狂信的でも教義的でもない。それはいつも人間的だし、やさしい。ユーモアとは、自分の不完全さを苦渋に陥ることなくみとめ、気持ちを楽にしてくれる。あの意識の姿勢です。そしてまた、他人の不完全さも微笑んでうなずける。 『エンデのメモ箱』
  • メールヒェンを本当に追体験するなら、そのとき、自分の中で何かが動き出すのに気がつくでしょう。ある特定のプロセスが動きはじめたのです。イメージのプロセス。個人的なものすべてを遥かに超えたプロセスなのです。 『闇の考古学』
  • 両の手を打ち合わせたとき、片方の手はどのような音を発するのでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • 『ジム・ボタン』の中の悪は、未だ不適切な状態にある悪です。その悪は、無慈悲ではなくて、本来、一つの間違いに過ぎません。あの竜は、もし、しかるべき状態にあれば、叡智の黄金竜になることでしょう。<あらくれ13>の、然るべき役柄は、王の護衛です。 『ファンタジー神話と現代』
  • 私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学び直さなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる。 『三つの鏡』
  • 今ヨーロッパに見られる風潮は、アメリカ的物質文明の克服を、何らかのアジアの精神性によって試みようとすることです。それはいいんだけれど、個人的にふらりとアジアの国に行ってメディテーションをする、それで自分だけは救われる、と思い込む人もいるのは危険です。 『三つの鏡』
  • 私たちはみんな、ゲーテが「精確なファンタジー」と呼んだ能力を発達させなければならない。私たちはまったく新しい概念や観念を学ばなければならないし、あるいは従来のそれを全く新しい、今までとは異なる関連付けをすることを学ばなければならない。 『だれでもない庭』
  • 私たちは、わが子や孫に向かい、来る世代に対して、容赦無い戦争を引き起こしてしまった。私たちは砂漠と化した世界を子孫に残すことになるだろう。子孫がそこで生きることはたやすいことではない。だが、子孫は応戦できないから、私たちはこのまま更に進めてゆく。もはや、これ以外のことは出来ない。
  • ”ほのかな暗示”という、この演劇形式の基本要素は、観客の知性と感受性と創造的な想像力とを、当然としてあてにしている。こうして能は観客に最高の敬意を表するのだ。 『エンデのメモ箱』
  • 新しいユートピアは、まだ現れていません。ユートピアを欠いているということは、未来に投影すべきヴィジョン、懸隔を跳び越えるときの指標となるヴィジョンをもたない、ということです。ユートピアなしでは、人は本来、生きて行けないのです。 『ファンタジー神話と現代』
  • 書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体。歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。
  • 「木(Baum)」という語をモールス符号、ゴシック文字、点字、そして漢字で見るとき、そしてこれらの文字を知らないとき、全く異なるものだと思わざるを得ないのではないですか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • みんなは現状に満足している。思い出がなく、比べることが出来ないのだからな。みんなに残されているのは個々の瞬間だけなんだ。奴隷状態以外を知らぬ奴隷はおとなしい奴隷だ。俘虜生活しか知らぬ俘虜は自由がないことに苦しまない。 『ミスライムのカタコンベ』
  • ヘルダーリンの有名な言葉があります。それは「危険が増すと、救いもまた増す」というものです。人間が全地球を破壊できるという人類史上はじまって以来の新しいページに足を踏み込むことで、同時に意識の飛躍が起こるのではないでしょうか。 『エンデの文明砂漠』
  • 今日ではもはや一国の経済などというものは存在しない。今、三分節構造の核心に迫ろうとするなら、国際規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。 『エンデと語る』
  • 実を言えば、私は公衆のために書いたためしがない。そうではなく、全ては神とのひとつの対話なのだ。その対話では、私は神から何かの恵みをお願いするのではなく、神に語りたいのだ。 『だれでもない庭』
  • 仏教にも転生はあります。ユダヤ教神秘主義のカバラにもあって、そこではギルグルと呼ばれています。転生はいたるところに存在している。あらゆる時代において周知の事実だったのです。 『闇の考古学』
  • グラオーグラマーンは、その両方だと答える。―あなたが造ったから、それははじめからそこにあった。前後関係というのは、そこにはありません。そういう意味では、原因と結果の因果関係はそこにないのです。 『ものがたりの余白』
  • 私の考えでは、ファンタジーというものは現実から逃げるための手段ではなく、現実に到達するためのほとんど唯一の手段です。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
  • 新しい精神性の知覚という意識段階は、人類進歩が近い将来に足を踏み入れるステップのはずですが、それは「突然変異」的に生じるでしょう。ロックが見たような世界を知覚する人間の数が、そのうちいきなり急激に増えると思うのです。 『エンデと語る』
  • 私は、もっぱら恣意的な思いつきに身をゆだねるのは、具合のいいものだ、ということを発見したのです。すなわち、ものを書くことそれ自体を、冒険のように体験しうるのです。 『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』
  • 赤裸々でそのままの事実、この「事実」はそれだけではまだ人間にとって「現実」とは言えません。この事実に意味を与えること、一つの特定の関連において意味を与えることができてはじめて、この事実は現実になるのです。 『エンデの文明砂漠』
  • 私達は、現実の経済及び工業生産が、常に成長し続けるように強制することがないお金のシステムを得なければなりません。現状の経済が、常に成長し続けること、しかも毎年最低3~4%の成長率があってこそのみ存在し得るものであるということは、私にはほとんど信じ難いことです。『エンデの文明砂漠』
  • これは(日本で)近い将来に十分ありうることですが、経済が少し傾けば、そうすればいわば全国民的な神経虚脱症を引き起こしてしまうのではないでしょうか。個々の人間が、近代工業社会の過度の要求にまいってしまうと思うのです。 『エンデの文明砂漠』(管理者注:1991年に出版されたもの)
  • 一般にドイツ・ロマン派こそ、ドイツ文化の独創的な最初の大きな成果かもしれません。それまではどれも、もとを正せばすこしは、少なくとも形式においては、他のヨーロッパ文化の借物でしたからね。 『闇の考古学』
  • 私が腹立たしく思うのは、これまで自然に対してめちゃくちゃに破壊してきたから、将来は破壊の手段をもっと巧妙にしようというふうに議論が進むことです。つまり、原罪の工業組織、社会のあり方をそのままにしておいて、少し悪賢く自然を搾取しようという態度です。 『三つの鏡』
  • ゲーテは色彩は原現象だと言っています。知覚の後ろに何があるかを問うのは無意味なことだ。なぜなら、その後ろには次々と観念が形成されるのですが、それらの観念もまた知覚から得られたものだからです。 『エンデの文明砂漠』
  • ロマン派を誤解して不明晰だというのは、ロマン派のコンセプトを十分に知らないからなのかもしれません。例えば、ノヴァーリスがフラグメントで書いたことなどは、部分的には、まさに火花の散るような明晰さを備えています。 『闇の考古学』
  • 私たちのドイツ語でSinnという言葉には、奇妙なことにニ重の意味がありますね。複数のSinne(感覚)と単数のSinn(意味)。そして、「感覚」を通じて語りかけてくる「意味」、それが芸術なのです。 『闇の考古学』
  • 偉大な秘密(Geheimniss)とは、ある特定の解答が存在する謎(Raetsel)ではない。その中に参入するためには、人間は秘密そのものによって変容されねばならない。 『エンデのメモ箱』
  • 本来のキリスト教の考えによると、「神というもの」はこの地上の人々の間に顕現するわけで、天地創造の結果であるこの世界自体、神の精神の示現なんだよ。世界をそういう統一体として理解するなら、現実にはもはや此岸と彼岸の区別なんてなくなってしまう。
  • 私の出発点は遊びなのです。類型化は危険ですが、創造的な人間には極性のようなものがあるのかもしれません。そう考えるなら、一方の極には、遊ぶ人間、ホモ・ルーデンスがいて、もう一方の極には、ある種の表現欲求とか表現衝動から創造する人間がいるようです。 『闇の考古学』
  • ロマン主義というのは、しかしはるかに大きな構想だったのです。それは文化や世界の全体にかかわる構想であり、世界についての哲学的な構想だったわけです。フィヒテを考えてみて下さい。いや結局ヘーゲルを考えてみて貰っても構いません。彼もまたこの大きな文化運動の中に含まれます。『闇の考古学』
  • すべては無意味だと、人に説き続けてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • ミノタウロスはテセウスを”わがものにした”。だからこそ、テセウスは最後にミノタウロスを殺すことができないのだ。自分自身を殺すというのなら別だが。人はだれも自分が探すものに変身するのだ。 『エンデのメモ箱』
  • 環境問題を解決するには、私たちが自然を、どこまでも経済的・実用的観点で考えている限りは、解けないでしょう。たとえば、アマゾンの熱帯原生林を破壊するなと言っても、それが単に地球の気候を守るためだけの意識だったら絶対駄目です。 『三つの鏡』
  • 戦争は市場を創設するという意味で、現在の経済構造に積極的に組み込まれており、私が現在の構造を批判する理由の一つもそこにあります。 『欧州知識人との対話』
  • 人類の歴史は、血と涙のあとでしかなかった、とさえ言えるでしょう。それにもかかわらず、信じた、愛した、希望した、だからこの三つは「自然を超えた徳」なのです。 『エンデと語る』
  • 王子を蛙に変えるのは大したことではない。比較的簡単だ。ご機嫌斜めの課長なら、誰でも毎日やってこなす。でも、蛙を王子に変える、これには大いなる芸か力か、それとも、愛がいります。 『エンデのメモ箱』
  • "ニューエイジ"という集合名詞で呼ばれるものは、おおよそのところ、実証主義や物質主義一辺倒の世界像から抜け出し、精神的な、よりよく言えば、総合的な世界観へ橋をかける試みといえるだろうそれは認識の真実と信仰の真実との間にある、今日では耐えられないほど深い溝に渡す橋なのだ。『メモ箱』
  • どの人間にも遊びたい子どもが潜んでいる。 『エンデのメモ箱』
  • 外の世界はおまえたちが住める世界ではない。過酷な光一つをとっても、おまえたちは微塵に引き裂かれるだろう。右も左もわからなくなる。おまえたちが頼れるものがそこには何もない。巨大な空虚がおまえたちを呑み込む。一回の呼吸、心臓の一鼓動さえ自分で決めなければならない。『ミスライム』
  • アジア人は自分の身体の中に、それほどしっかり座っていない。すべてはもっと通過性がある。もっと、さらに、そう、柔らかいというより、もっと透き通っているのです 『ものがたりの余白』
  • 『モモ』では―私自身の経験にも照らして―、悪は別のものに表現されました。すなわち、人の手に負えない、無慈悲なものとして表現されたのです。ですから、それはどうやっても、喜劇的にはならないのです。こうして、その悪から、灰色の男たちが生まれました。 『ファンタジー神話と現代』
  • 小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • 本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、本当に耐え難いものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパシー的方法で観客の中に逆方向の力を呼び覚まします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。
  • ヨーロッパ人が自動的にしてしまうこの反応が、アジアにはないことに、そのとき初めて気が付きました。私たちはいつも分けてしまう。彼岸と此岸というのもわけてしまう。それがアジアにはない。 『三つの鏡』
  • 人のなかに、そしてこの世界のなかに、創造的なものを見いだすことは、既にそれ自体が創造的な、つまり因果関係がない行為なのである。これが見えないのは一つの欠陥であり、感覚や思考から"今"と"ここ"が失われる。そのため、我々は過去の世界の虜囚となるのだ。 『エンデのメモ箱』
  • どのような規則が表に現れているか、というのは、ほとんどどうでもいいことです。大事なのは、その後ろにある意識なんですから。みんなでともに規則を考え出そうという意識。そのおかげで、私たちの間で、お互いにコミュニケーションが出来る規則です。 『ものがたりの余白』
  • リアリズムが、すべての現象の全体的連関から、ある特定の現象―例えば社会的関係―を取り上げようとすれば、好むと好まざるとにかかわらず、虚構の世話にならざるをえない。そして虚構はその時々の文化に結びついているのだ。 『エンデのメモ箱』
  • 日本の友人と話をすると、いつも感じます。ヨーロッパ人がするように、物理的なもののなかに、そんなに深く入り込むことを好まないようですね。日本語での話も、いつもちょっと上を漂っているようで、暗示にとどまるようです。 『ものがたりの余白』
  • この世界は断片だけから成り立っている。そしてどの断片も他の断片とはもう関係がなくなっている。わしらのところからあの言葉が消えてしもうてから、そうなったんじゃ。おまけに、なんとも困った話じゃが、断片はどんどん壊れ続け、お互いを繋ぐものが、ますます少なくなっている。 『鏡の中の鏡』
  • 戦後の数年間、私はいつもこう想像していた。いつの日か"すべてが"おさまれば、そうすれば、ほっとした素晴らしい気持ちになるだろうと。だが、その気持はついにやってこなかった。今日に至るまでそうだ。 『エンデのメモ箱』
  • 想像する力は不断に磨いておかねばならないと思うのです。子どもたちはだれでも、想像する能力を潜在的に持っているのですが、最近の教育はそれを殺すことに一生懸命ですね。とても残念で、不幸なことだと思います。 『欧州知識人との対話』
  • 見かけ上の現実らしさ、表面のリアリティーを諦めるとしたら、では舞台の芝居で本当にリアルだといえるもの、確かな現実だと納得させられるものは、どこに表れることになるんだろう?という問いです。そのさいの説得力ある現実性は、精神世界のリアリティーでしかありえません。 『三つの鏡』
  • ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアの全文学が26のアルファベットから成っていることは、実に不思議なことではありませんか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
  • 自己に執着すればするほど、人は真の自己を失う。自己をなくせばなくすほど、人はその人自身になる。 『エンデのメモ箱』
  • 僕の本では「汝の欲することをなせ」は人生の規則ではないということだ。「はてしない物語」ではこの言葉はあそこだけ、この言葉が相応しいと僕が思うところだけ、つまりファンタージエン、想像の王国、芸術やポエジーや夢の王国だけで有効なのだ。 『エンデのメモ箱』
  • サイーデは、危険な力、人を永久にファンタージエンにひきとめてしまおうとする誘惑者です。この世に実在する力は、どんなものでもポジティブにもネガティブにも働きうる。どっち側に作用させるかは、人間の意識が決定する。 『エンデと語る』
  • 例えば、ごく普通の会話の場面があるとします。その普通の日常会話が次第に韻文に移行していきますね。すると、もう自然な言葉ではなくて、様式化された言葉になってきます。それからもう一段レベルを上っていくと、アリアとか歌に移行します。こういう移行の可能性が、私には大いに刺激的なんです。
  • 監獄の設備が豪華であればあるだけ、ますます囚人は腹立たしくなるね。そうなると、全ての論証が停止され、自分の座っている快適な、ゴム張りの個室で、貝のように沈黙させられてしまう。何一つ不平は言えず、ただ、自分はまさにこの種の快適さを欲してはいない、ということだけが分かっている。
  • 芸術家はどんな場合でも孤独です。成功して世間に受け入れられても、成功せず受け入れられなくても、です。 『闇の考古学』
  • これまでの生涯を通じて、今日、本当の大人と称されるものになることを、私は拒み続けてきました。つまり、魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、いわゆる”事実”の世界に存在する、魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、あの不具の人間たちです。 『エンデのメモ箱』
  • 「精神」という言葉が、どうも知性とか、知識とかと混同されています。経済の構造が「精神」を食い散らかしてしまったからでしょうか。しかし、私はそれでもなお、「精神」という言葉のなかに、プラトン的なものがあると信じるのです。 『欧州知識人との対話』注:ドイツ語では精神・霊はGeist。
  • 愛する―言うのは簡単だ!だが生命の水はお前に尋ねるだろう、だれを?とな。つまり愛するというのは、ただ単に、一般に愛するなどということではないのだ。 『はてしない物語』
  • 私は、その大変良い設備を持った舞台で、例えば『ゴドーを待ちながら』が上演されないことを、残念に思っています。―この作品を、私は今世紀最大の価値を持つ戯曲である、と思っています。(注:舞台とは普遍アントロポゾフィー協会のあるドルナッハのゲーテアヌムの舞台のこと)
  • 戦後40年の現代文学においては、作家は読者を啓蒙し、知られざる事実のあれこれを知らしめるものだ、とする考えが風靡してきました。いわば、作家は読者に教訓を垂れる教師だ、といったイメージです。が、私は、そんな創作態度を大いなる思い上がりだ、と断じます。
  • 一は結局全ての対立を、より大きな統一性、一体性、見える世界と見えない世界を全部包括する一体性の中に、非常に大きな調和の中に入れ込む数字です。この全体性が一で、これを神、最高の存在と呼んだわけです。二元性が既に悪魔です。私達が常に二元的に考えざるをえなくなった事態こそが悪なのです。
  • 神が初めに行ったのは、話すことでした。そして、話すことは、先程の意味での言葉なしで話すことですが、それは、そもそも精神の原理なのだと思う。それで、「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」と言われるのですね。
  • 機械が仕事しているとき、いったい厳密に言うと何が仕事をしているのか?出資者の頭脳ではない。それは明らかだ。機械において仕事をしているのは、全人類が蓄積してきたテクノロジーに関する知恵だ。それは、僕たちみんなが共有している遺産なわけだから、僕たち皆に役立つべきである。『オリーブ』
  • どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことの全て、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです。 『エンデの遺言』
  • 時間をケチケチすることで、本当は全然別のなにかをケチケチしているということには、誰ひとり気がついていないようでした。自分たちのいのち(生活)が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、誰ひとり認めようとはしませんでした。 『モモ』
  • 経済と金融システムは、いつの間にか、真正癌が形成されるときの特徴をみんな備えてしまった。つまり、それは生き続けるために、常に成長し増殖しなければならないのだ。この原理は、社会主義という名の、かつての国家資本主義や、まだ存在する私的資本主義にも同様に当てはまる。 『エンデのメモ箱』
  • いつも避けたいと思っていることがあります。説明はしたくないのです。私は本のなかで説明をするつもりはありません。ある種の秘教的な小説では、絶えず秘教が説明されています。そういうのを目にすると、ぞっとします。それだけは避けたい。 『闇の考古学』
  • 一冊の本は、何かの思想のお説教であってはならない、と私は言いましたが、それは著者が関わった思想の世界ではあるはずなのです。一篇の詩は、知恵をしのばせておく必要はないのですが、知恵から生まれた結果ではなければなりません。 『エンデと語る』
  • 外的な年齢とは無関係に、私たちのなかに生きるこの子ども、いつまでも驚くことができ、問い、感激できるこの私たちの中の子ども。あまりに傷つきやすく、無防備で、苦しみ、慰めを求め、望みを捨てないこの私たちのなかの子ども。それは人生の最後の日まで、私たちの未来を意味するのです。『メモ箱』
  • いつも予め結果を知りたがる人は、決して、精神と生の、真の冒険に身をゆだねることができません。人は、いわば闇の中へ墜落死、その後、そこで会得した別の編成を整えて、自力で、独立独歩、創造的に前進すべきなのです。 『ファンタジー神話と現代』
  • 医学にとどまらず、すべてにおいて、現代では何でも、いますぐ、直接に効く対症療法を考える。しかし、その即効性というのが何を代償にしているのかということを考えない。もう、なんというか、あきれるほどお人好しなやり方です。 『三つの鏡』
  • 世界史全体をみると、人間の文化の発展に極めて重要な役割を果たしたのは常にアウトサイダーだった、と言ってよいと思います。例えば、偉大な聖人達をお観だしていただければと思います。あるいは偉大な芸術家、偉大な科学者もです。 『身体の想像力』
  • 私の意見では、例えばヴァン・ゴッホの有名なあの「ひまわり」の絵の方が、ことによったら、他の多くの政治的アンガージュマンを志向する芸術作品よりも政治的、社会的影響力を強いのではないかと思います。この絵は物の新しい見方を教えてくれたからです。 『身体の想像力』
  • 真実は単純だと、よく耳にする。それは正しい。しかし、何か誤ったことをいいたのではないかと、それだけが気にかかる。単純なことは簡単にわかるはずだと言いたいのではないか。しかしこれほど難しいことはない。 『エンデのメモ箱』
  • 私にとっては、口で話された言葉が本当の言葉なのです。その点で、私は同僚の他の作家と考え方が違います。彼らにとっては書かれた言葉が本来の言葉、重要な言葉なのです。しかし私にはやはり、話された言葉、今この瞬間に話された言葉であるということが重要です。そこに本来の言葉が生じるのです。
  • 私をグルにしようという誤った考えの源は、もっぱら、<メッセージ>だけに目が向かうことにあるのです。<メッセージ>を最大限、解読しようとばかりして、元来が詩的なプロセスには、注意を払わないのです。そのプロセスの方が、ずっと重要なのに。 『ファンタジー神話と現代』
  • 正義についても(真理や善と)事情は同じです。それは私たちの中に生きているのですが、しかし、それは理念―プラトンがイデアと定義したものですが―なので、同時に私たちの周りの精神宇宙にも存在するのです。しかし、それを物質的価値と同じ意味で、外的・内的と想像するのはよくありませんね。
  • 人間が経験するものはすべて、芸術とポエジーの対象です。天国と地獄。悲劇と喜劇。光と闇。それに、聖なるものを表現する芸術家、もしくは詩人は、彼自身が聖人というわけではありません。犯罪を表現する者は、彼自身が犯罪者ではありません。絶望を表現する者自身が絶望者ではない。
  • 彼岸の世界と連絡をとる方法としての心霊術は、どのような形でも極めて危険な邪道だと思う。 『エンデのメモ箱』
  • バスチアンはあの一夜に、あの謎めいた本を読むことにより、彼の神話を体験するのですから。それはバスチアンが体験する、彼の神話なのです。そして、バスチアンは、あの夜、かれの神話を体験するからこそ、翌日には、外の世界にも向かう事が出来る力を、彼自身の中に見つけることになるのです。
  • 禁欲というのはもともとそういう意味だったんではないか。無理矢理に諦めて、貧しくなるということではなくて、別の領域で、もっとインテンシヴ(濃密さ・強度的)にできるから、結果として日常の領域では弱くなっていくんだということ、むしろより豊かになることだったのです。 『三つの鏡』
  • 芸術が嘘だから、私たちはそれを通して真実を見ることができる。それが虚構だと、私たちは知っているからです。それを忘れたときには、芸術は猛毒になってしまう。
  • メールヒェンの秘密はイメージの多義性にあるのです。イメージそのものがすでに、伝えられるべき内容なのです。イメージ言語を読むことを、私たちが忘れてしまっただけなのです。 『闇の考古学』
  • それぞれ名付けられたものは、それがあたかもそれだけで存在するかのように、名がない全体から切り離される。それは、いわば"必要な罪業"だが、しかし、そうしなければ、人は世界と向かい合えない。つまり、意識ある存在になれない。自分と区別できないものは名付けられないのだ。『エンデのメモ箱』
  • ジェイムズ・ジョイスは、よく言われるように、ヨーロッパ現代文学の父です。ですが、ジョイスの文学、ジョイスの文学理解は、まさに私のとは違うものです。とても重要な役割を果たしたけれど、もう過去のものだと思います。 『芸術と政治をめぐる対話』
  • 苦い顔をして受け入れるのではなく、明るい顔で挫折を受け入れること、それが芸術家にとって一番大事なことでしょう。なぜなら、芸術とはほとんど挫折だけで出来上がっているのですから。 『ものがたりの余白』
  • お前は自分の認識しないものは価値がないというのか?ファンタジーは現実ではないというのか?しかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれ育たない。我々が創造するものの中でこそ、我々は自由なのだ。『サーカス物語』
  • 確かに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場跡の近くに住む人達より、良い服装はしていました。お金も余計に稼ぎましたし、使うのも余計です。けれど、彼らは、不機嫌な、くたびれた、怒りっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。 『モモ』
  • 過去三百年間の発展がもたらした数多くの問題を解決するためには、新しい認識方法や新しい意識のありようへ達しなければならないと確信している。社会的領域でもそうだし、経済の領域、文化の領域でもそうだ。 『エンデのメモ箱』
  • 自主的に道を歩むことは、必ず危険がつきまといます。私がシュタイナーから学んだ事が一つあるとすれば、それは彼が自分の道を歩む時に示す、いわば信じ難いほどの無頓着さであったと言わざるをえません。時にそれは無分別に思えるほどでした。彼は運命が彼の行く手に用意するものを受け入れたのです。
  • 何でもかでも、歌うように話し、子音と母音の体験を思い浮かべれば、それで十分である、などと考えないようにすべきです。そんなことをしても、決して、霊に満たされた言語に到達することはないでしょう。逆に、極めて不快な形で、心理的な影響が、密かに混入してしまいます。『ファンタジー神話』
  • あの音楽はとっても遠くから聞こえてきたけど、でもあたしの心の中の深いところで響きあったもの。時間ていうのも、やっぱりそういうものかも知れない。 『モモ』
  • まだ名がないものや生物に名を与える―単なる呼称では無く、まことの名を与える、これこそは人間が持つ能力の中で、もっとも人間の根源的なものだ。これにより、はじめて人と周りのものに関連ができ、その人にとり、その存在は初めて現実となる。 『エンデのメモ箱』
  • 言うまでも泣く、何かについて思いつく、そのテーマは、その人が育ててきた世界観や見解と繋がっている。ただ、私には、自分の頭の仲に生起することすべてを、一つの体系に収めえたためしがない。どの問いにも、答えが用意されている哲学体系を私は持たない。 『だれでもない庭』
  • 私たちは、何をどんなにこねくりまわしてみても、「私たちの意識と、この世界なるものとは、ふたつの別物ではない。ひとつに合わさったものである」という事実から逃れることはできません。 『エンデと語る』
  • 事実というものがみんな意味を失ってしまう方向に、二十世紀まで進んできたわけです。ヨーロッパの典型的なニヒリズム、つまりすっかり空虚さを感じる地点にまで至ってしまいました。そういうことからもヨーロッパとアジアは相互に補完しあう世界だと思います。 『三つの鏡』
  • 世界中のどのタンポポにも、いつも一つの同じ本質が現れているのに気づくだろう。つまり、それは時間を超えているだけでなく、場所をも、いや空間をも超えていると言う方が良いだろう。それが実は本当のタンポポなのだ。 『エンデのメモ箱』
  • そのような異文化は、我々の視点、自然科学的に解明された観点のみから捉えて見過ごすなら、決して互いに理解し合えません。ある文化を内側から理解しようとする意識を持って、まず実際にその文化の中に入り込まなければならないのです。 『身体の想像力』
  • 人間の自由とは、様々な創造力にあるのです。人間が因果律的循環を打ち破り、自由に自らのうちから創造できることにあるのです。それは決して芸術の分野に限りません。モラルの分野でも同じです。そこでは人間は、自らを規定できるのです。あくまでも、そこにこそ自由の瞬間はあります。『文明砂漠』
  • 人生は耐えられないほど非現実的だ!当時僕は自分にこう言い聞かせた。僕たちが終わりのない夢の画像にすぎないならば、その夢を見ているもののことを少しでも知るべきだ。なぜなら、それがただ一つだけの現実だからだ。 『だれでもない庭』所収遺稿 戯曲『宿』
  • 我々の生きている今日の世界では、すべて、役に立つかどうか、売れるかどうか、あるいは商品に適しているかどうかを調べます。そのような世界の中で、貧しいサーカスの芸人達は今日の芸術家の典型のように思えるのです。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
  • 芸術、または詩が持つ説得力は、あくまでも、形象理念の具現、その完璧さの中にだけある。 『エンデのメモ箱』
  • 芝居を見るという経験には、心を救う効果、つまり治療の効果がある。そういう経験の属する次元を変えない限り、それは人生に必要不可欠なものだ。ところが経験の成立するレベルを混同すると、経験は、人生に危険なもの、人生を破壊するものになる。
  • この世の現象全てはそれぞれの「質」をもっている。あるがままの質である。この植物、この花、この動物、この石…みんなそれぞれひとつの「質」をもっている。その「質」を知覚する。徹底的に知覚する。 『エンデと語る』
  • 私がものを書く場合には―擬古文調や、ある種の誇張を行わずに―現代語から、今なお生きている言葉を選び出そうとします。色や音楽の場合も、そうです。そして、この部分を、なんども強調しようとするのです。もちろん、慎重にやりますが。 『ファンタジー神話と現代』
  • 人間が完全な孤独を体験できるのは、物体的な物質世界でしかない。この完全な孤独の体験は、人間が自立した存在になるために必要なことなのです。なぜなら、いわば他の種の力や威力がいつも身体の中を流れている、もうひとつの世界に止まるのならば、いつまでたっても自立しないのですから。
  • 価値は自ずから存在するものではありません。いわば生まれつきのものでも自明のものでもありません。存在する為には価値は生み出され常に更新されねばなりません。社会批判というものは、共通の価値をつまり人類の価値を前提とします。この価値を常に新しく生みだすことこそ、詩人が負う課題なのです。
  • 人種や種族を基点にすると、人類共通の問題がみえなくなります。今や人類全体を基点にしなければ、未来に向かえない時代です。社会が前に進みません。ではその人類共通性とはどこにありうるか。ファクトだけの世界にではなく、意味の関連しあう世界にあるのです。 『三つの鏡』
  • 精神というものを出発点にして生きねばならん。よろしいかな、お若いの?認識というものを出発点にして生きねばならん!だがそれはそれほど簡単なことではまったくない。とくに日常生活では。 『鏡の中の鏡』
  • 「つくることができる」という考え方が、そうやって頭の中に叩き込まれてしまうと、僕らとしては、どんなものでも科学的に「つくる」ことができ、「つくら」なくてはならないと、信じて疑わなくなる。社会も、計画都市も、人間の行動様式も、みんなの幸福とか世界平和だって、そう考えられてしまう。
  • 水平は、時間や前後や道や、また因果性の次元を意味する。垂直は、永遠なるものや常にあるものや創造的なものの次元を意味する。その両方が交差する箇所が、”今、ここ”なのだ。時間のどの瞬間をも絶対者との関連に見ることは、苦しみを受け入れることである。 『エンデのメモ箱』
  • 自然科学が犯している大きな間違いは、学者が、今学説を立てている瞬間瞬間の自分自身を忘れてしまうことです。自分を忘れるということは、ときには素晴らしいことです。しかし、認識論に関わる問題では、それは度し難い間違いになります。 『三つの鏡』
  • 私の世界観を、魔術的世界観というふうにご覧になりたければ、それでも結構です。すべてが知的に説明できることを前提にした現代一般の世界観とは、私は絶対に相容れない立場を取っています。 『三つの鏡』
  • 私達人間にも明るい側、すなわち光の側面があり、これは意識の側です。この面は私たちの理性・知性の側です。しかし、もう一方では人間の意志の側面があります。そして、意志は常に人間の中のとても暗い深みからやってくるのです。 『エンデの文明砂漠』
  • 私は、人間はイメージを通して語らなければならないと思います。それは内面的なイメージですが―風景と言ってもいいかもしれませんが―内面的なイメージを深めていけば良くほど、人間というものは世界中どこでも似通ったものであるということが、だんだん分かってくると思うのです。  『物語と夢』
  • 人間における本来の人間らしさは、この創造的なる能力にあると思います。人間とはこの世で唯一の創造的であり得る生き物なのです。つまり、本能とか生存規則とかに拘束されていない生き物です。 『エンデの文明砂漠』
  • すべてがわしにはどうでもよいことだからこそ、決める理由は全くなくなってしまった。最初わしを金縛りにしたのが、不確かな結果へのおそれだとすれば、最後には、何が起ころうと、どうとでもなれという無頓着な思いが、選択を不可能にした。 『自由の牢獄』
  • 認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになります。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』
  • 啓蒙主義者の正統性の主張は普遍的で情け容赦もなく、独占的なのに、その教条の残酷な必然的帰結を実行する者がいると、どうして彼らは驚愕するのだ?それとも、彼らはとどのつまり、自分たちが説くことを真面目に信じていないのだろうか? 『エンデのメモ箱』
  • 内部の世界を外部の世界に変え、外部の世界を内部の世界に変えて、その結果、一方が他方の中で再認識される。そうすることによってのみ、人間は自分の世界でくつろいだ気分になれる。 『オリーブの森で語り合う』
  • ポエジーとつきあうことは、良家の子女が日曜の昼下がりにするお遊びではありません。なぐさめや楽しみの源泉ではなく、生死を賭けた冒険なのです。
  • 精神的なものはすべて人間が作り出さなければ、創造的に作り出さなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。 『エンデの文明砂漠』
  • 前世紀では芸術家について様々なイメージがありましたが、そのどれよりも、遥かにて仕事職人に近いものではないでしょうか。私に言わせれば、芸術家というのは、指物師から始まったわけです。使うことの出来る戸棚だけでなく、美しい戸棚を作ることのできる指物師からね。『芸術と政治を巡る対話』
  • 影の民のあいだで、高い教養と幻想に耽らない啓蒙度を示すしるしとしされるのは、意義や理由など問わず、そこでの存在に満足することだった。 『ミスライムのカタコンベ』


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