マザー・テレサの名言集
2014/04/05
マザー・テレサ(Mother Teresa、本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月26日 -1997年9月5日)
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者である。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国名誉市民 アメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
- 神がここにおられること、そしてどんなに私たちを心にかけてくださっているかを感じることは、とても素晴らしいことです。この喜びをぜひみんなと分かち合いましょう。もう一度、家族を中心とした生活に戻りましょう。あなた方と、あなたの国のためにする私の祈りは、この祈りです。
- だれでも、あなたのところに来た人が前よりもっと気分良く、もっと幸せな気持ちで帰ることができるように。あなたの顔やまなざし、あなたのほほえみに、親切を見ることができますように。喜びは私たちのまなざしから、ことばや振る舞いにあらわれます。それは決して隠すことはできません。
- ほんとうに愛したいのなら、ゆるす事を学ばなければなりません。ゆるし、そしてゆるしを請う事。責めるのではなく、ゆるしますと言う事。まず和解し一致しましょう。他の人たちとではなく、まず自分と。自分の中に清い心を持つ事から始まります。清い心は他の人々の中におられる神を見ることができる。
- あなたのところへ来る人たちもまた、神にとってこの上なく貴く大切なのです。彼らが聖性の輝きに満たされるよう手伝いましょう。なぜなら聖性は決して限られた人たちに約束された特権ではないからです。聖性に達することは、あなたにとって、私にとって、そしてすべての人にとって純然たる務めなのです
- 愛すること、希望することをどのように始めましょうか?一緒に祈る家族はいつも一緒にいます。そしていつも一緒にいれば、自然とお互いに愛し合い必要とし合うようになります。今日、祈りを生活に取り戻す必要があると私は感じています。あなたのお子さんに、祈りを教えてあげてください。
- 神は私たちを愛し、愛されるために創ってくださいました。そしてこれが祈りの始まりです。神が私を愛していらっしゃるということがわかるために、私がもっと偉大なことのために創られたということがわかるために。
- 時間になっても祈りに集中できない時、簡単な解決法があります。私の心の中にいらっしゃるイエス様に、どうか、私のために祈ってください、静けさの中で、どうか天のお父様にお話ください、とお願いすればいいのです。話すことができない時には、イエス様が私のために祈ってくださいます。
- わたしたちのこころは、静かなところに退いて祈るために、また、口や目や全身を使って祈るために、時間が必要です。その静けさがないならば、どうやって祈ればよいのか、わからなくなるでしょう。
- 祈りの実りは、信仰の深まりです。信仰の実りは愛です。愛の実りは奉仕です。しかし、祈るためには、こころの静けさが必要です。
- 神はわたしたちのことを大切に思っておられます。道端で死にゆくあの人も、あの大富豪も、あの罪人も、神にとっては皆、大切なのです。神はわたしたちを愛しておられるからです。
- 神がわたしたちを愛しておられるのを知るために祈らなければなりません。
- 愛するイエスよ。あなたを宣べ伝えさせてください。ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって、人をとらえる力によって、人のこころに共感を呼び起こす行動によって、わたしたちのこころに満ちるあなたへの愛の証しによって、あなたを知らせることができますように。
- イエスよ、光はすべてあなたから発するのです。わたしたちからではありません。わたしたちをとおして人を照らすのはあなたなのです。わたしたちの周りにいる人を照らし、あなたの一番望まれる方法で、あなたを称えられるようにしてください。
- 愛するイエスよ。わたしたちと一緒にいてください。そうすれば、あなたと同じようにわたしたちも輝きだし、隣人を照らす光となることができるからです。
- 愛するイエスよ。わたしたちの接する人が皆、あなたの現存をわたしたちのこころに感じ取り、わたしたちではなくあなたを見つめることができるようにしてください。
- 愛するイエスよ。わたしたちがどこにいても、あなたの香りを、ただよわすことができるように助けてください。あなたの霊といのちで、わたしたちのこころを満たしてください。
- 「わたしが愛したようにあなたがたも愛しあいなさい」とイエスが言われたとおりにするとき、その愛が行動に移されるのです。
- わたしたちは多くのことを複雑にしてしまうように、祈りについても難しく考えてしまいます。でも、それは、分かたれない愛でイエスを愛する---あなたにとっても、わたしたちにとっても、誰にとっても、ただそのことなのです。
- 調子のいい時、悪い時、病気の時、悩みの時があります。それらはみな、十字架の一部です。イエスに完全にならおうとするなら、主の御受難にもあずからなければなりません。だから祈らなければならないのです。だからいのちのパンが要るのです。だから礼拝するのです。だから罪のゆるしを受けるのです。
- いのちのほかならぬ初めから、いのちが生じたその瞬間から、受胎のときから、そのいのちは神のいのち。---生きている神のいのちなのです。だからこそ、いのちの抹殺はひどい悪事なのです。---それは神の似姿の破壊だからです。
- わたしたちは神の似姿として、人となられたイエスの似姿としてつくられています。すべての子供は、もっとも偉大なことのためにこの世に生まれます。---愛し、愛されるためです。
- イエスの道を学ぶのに一番よい道、確実な道は家庭である。
- 何であれ、あなたたちが家族の中ですること、子供のためにすること、夫のためにすること、妻のためにすることは、イエスのためにすることです。
- 幼い子はなんの困難も障害もなく愛することができます。だからイエスはこう言われたのです。「幼な子のようにならなければ・・・」
- 思いやりや親切によって、喜びを分け与えることによって、ほほえみを投げかけることによって、ささいなことをとおしてでも愛をあらわすことができます。
- 愛は家庭からはじまります。もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら、どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。
- 子供たちはじっと見ています・・・そして、見ながら成長していくのです。自分たちの生き方の大切さを、子供たちは親の生き方を見ながら学んでいくのです。
- 祈ること、互いに愛し合うこと。悲しみを分かち合うこと、一緒に喜ぶこと。両親が手本を示せば、子供たちがこれらのことを忘れることは決してないでしょう。
- 両親が神のことを話題にするのを聞くことは、子供にとってとても大切なことです。子供たちは飢えています。だからわたしたちが一緒に祈らなくてはならないのです。
- 新しいテレビを買うはずだったお金を貧しい人たちのために役立てて欲しいと、ある家族はわたしに送ってくれました。一緒に分け合うこと、話し合うこと、笑うこと、愛すること、冗談を言い合うこと。家族のメンバーがそろっているだけで十分で。一緒にいられる事の喜びを大切にしたかったのです。
- 現代社会には、愛する喜びを枯れさせる多くの要因があります。人々は、あり余るほど持っていても、さらに物を欲しがります。人々は不満でいっぱいなのです。
- 苦しみは神からの贈り物なのです。それによってわたしたちは、キリストに最も似た者となるのです。苦しみを罰と受け取ってはなりません。
- 苦しみ、苦痛、屈辱、病気、失敗、それは主のくちづけにほかなりません。
- すると、体中をむしばまれた一人の男の人が、わたしのサリーをつかんでこう言うのです。「もう一度、もう一度おっしゃってください。この病気は神様の愛なのですね。マザー・テレサ、苦しんでいる人たちは、あなたの話しの意味がよくわかるのです」苦しむ兄弟姉妹の中にカルワリオを見ることができます
- あなたたちが味わっている孤独感は、イエスがこの世に来られたときに味わわれたものと同じなのです。イエスは人間として父のもとを離れておられたので、人として生きられたので孤独になられたのです。
- クリスマスにハンセン病患者に話しをしました。あなたたちの負っている病気は神からの贈り物なのです。神はあたなたちを強く信頼しておられるから、その苦しみをお与えになったのです。
- わたしたちは、「死を待つ人の家」の中で、臨終の人に、罪のゆるしと神との出会いをもたらす祝福を受けたいかどうかを尋ね、もし望めば与えています。死にゆく人はみな、わたしたちが聖ペトロに見せる切符(天国への入場券)を配っていることを知っています。
- 何も持たず、だれにも一緒にいてもらえない人たち。彼らの生活そのものが祈りです。その人たちは、わたしたちのために知らずにとりなし続けているのです。だからこそわたしは、「死を待つ人の家」が、カルカッタの教会の宝の家だと思っているのです。
- わたしたちの間には偉大な人々がいます。ただわたしたちがそれに気づいていないだけなのです。その人たちとは貧しい人々の中でも最も貧しい人々。だれからも望まれていない人。相手にされない人。はねつけられる人。アルコール依存症の人。足の不自由な人。目の見えない人。病気の人。死にかけている人
- 苦しみは、清くなるため、聖化するため、キリストに似た者にするためにあるのです。
- 不満は、伝染しやすい病であり、癌であり、その中に怒りが潜んでいます。
- 今日の、苦しみについての誤解の大部分は、恨みと不満から生じているのです。
- わたしたちは十分に祈らないので、人間的な面しか見ていないのです。わたしたちは神の働かれる面を見ていません。そのため、神を恨むのです。
- イエスに最後まで従いたい人は皆、その苦しみにもあずからなければなりません。勇気をもちましょう。苦しみを受け入れる勇気を持てるようにと祈る勇気を。
- わたしたちは貧しい人々の偉大さに気づいていません。彼らがいかに多くのことをわたしたちのために与えているかをも・・・これは驚くべきことなのです。
- わたしたちは主の愛を宣べ伝えるべきです。ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって、行動によって。愛の仕事はすべて、平和の仕事です。
- わたしたちが存在している真の理由は、神の愛の輝きになること、永遠の幸福の希望となること、これがすべてです。
- わたしたちはみんな神を愛したい。では、どうしたらよいのでしょう?小さいイエスの聖テレーズはすばらしい模範です。彼女は大きな愛をもって小さなことをしました。平凡なことを非凡な愛で行ったのです。だから彼女は偉大な聖人となったのです。
- 2+2=4であることをわたしは知っていますが、同様に、主が小さく、弱く無力なあの人の中におられることをも知るべきです。
- では、神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?それは自分の家族への忠実と、神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。たとえ有能でも無能でも、金持ちでも貧乏でも。大切なのは、どれほど多く行ったかではなく、行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
- 何の働きもしない愛、そんな愛は無意味です。愛を行動に移さなくてはなりません。それが奉仕です。
- パンだけではなく、愛に飢えている人。服だけではなく、人間としての尊厳や尊敬を奪われている人。レンガの家がないだけではなく、受け入れてくれる人のいない人。この人たちこそみじめな姿を取られたキリストなのです。
- いくつの資格をとったか、いくら稼いだか、どれほど偉大な業績をやり遂げたか、生涯の終わりにわたしたちが裁かれるのは、これらのことについてではありません。
- この一人を助けなかったら、今まで助けた四万二千人の人をも助けることはできなかったでしょう。このような仕事はすべて大海の中の一滴に過ぎないものです。でも、この一滴を注がなくては、海の水は一滴分減るのです。さあ、始めましょう・・・ひとつずつ、ひとつずつ。
- 互いに親密になることによって、キリストと親密になるのです。キリストが「わたしたちの兄弟の最も小さな人にしてくれたことは、わたしにしてくれたこと」と言われるとおりです。
- わたしは一般大衆を責任の対象と見なしたことは一度もありません。わたしは個人を相手にします。わたしは同時に一人しか愛せません。同時に一人にしか食べさせることはできないのです。対象はつねにひとりなのです。
- あなたの心の中に神を愛する喜びをもち続けましょう。そしてこの喜びを、あなたが出会うすべての人たち、特にあなたの家族と分かち合いましょう。聖となるよう、一緒に祈りましょう。
- 私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。
- 本当に神は私たちのことが好きでたまりません。たとえば、どんなに罪が多くても、ゆるしの秘跡にあずかれば、清められて戻れるのです。これ以上に大きな愛がありますか?それは人が理解しきれないものなのです。イエスはくり返し言っておられます。「私が愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」。
- 人は、不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。
- 人々があなたのうちにイエスを見ることができるような生き方をしなさい。あなたの祈り方のうちに。あなたの清い生き方のうちに。あなたの家族との接し方のうちに。あなたの家庭にあふれる平和のうちに。その時、あなたは彼らの目をまっすぐに見て言う事ができます。「これが生き方だ」と。
- 父なる神は痛みを負いました。最愛の子をお与えになったからです。イエスも痛みを負いました。あなたとわたしを愛するために。
- まことの愛は傷つきます。ある子供は、愛するがゆえに苦しみました。三日のあいだ砂糖をなめるのを我慢したからです。
- イエスの愛は無条件で、やさしく、ゆるしに満ちていて、完全。損得を計算せず、限度を置かず、見返りを求めない。イエスは傷ついてまでもお与えになるのです。
- イエスはいつもそこにおられます……わたしたちを愛し、わたしたちに分け与え、わたしたちの人生の喜びとなってくださるために。
- 人々がイエスを拒否しても、イエスの現存を拒否しても、彼らがイエスを見つけるまで何度でも回心への努力を求められ続けるでしょう。
- すべての人に回心が必要です。もし彼らが自分たちの生活の中に神を迎え入れるなら、その人は回心を遂げるのです。聖なる生活において成長することは、回心のしるしです。キリストに似た者として成長することは、回心のしるしです。
- それはまるで、今日人々が貧しい人たちについて、たくさんのことを言いますが、貧しい人たちのことを知りもしないし、彼らに話しかけたこともない、というのと同じようなものです。私たちもまた、どう祈るのかをわかりもしないで、祈りについて多くを語ることはできません。
- すべては、祈りから始まります。愛する心を神にお願いすることなしには、私たちは愛する心をもつことはできないし、人を愛することができるとしても、人に与えることのできる愛は、ほんのちょっぴりでしかないでしょう。
- ひとりの女性が子どもを抱いてやって来て、こう言いました。「マザー、私は食べ物をもらいにあちこち訪ねました。私たちはこの丸三日間何も食べていないのです。けれど人々は、あなたは若いんだから、自分で働いて、お金を稼ぎなさい、と言って、だれひとりとして何もくれようとしなかったのです」
- 貧しい人の姿をしたイエス様を知って、愛して、食べ物をあげ、服を着せて、宿を用意することのために、私たちには、今日があるのです。明日まで待ってはいけません。今日、私たちが彼らの食べ物をあげなければ、彼らは、明日はもういないでしょう。
- 愛は、今日始まります。今日、だれかが苦しんでいます。今日、だれかが路上にいます。今日、だれかが飢えています。私たちの働きは、今日という日のためにあるのです。昨日は過ぎてしまいました。明日はまだ来ていないのです。
- このことは、傷つくまで与えることを喜んで受け入れるよう要求します。そうでなければ、私の中にほんとうの愛が存在しないことになり、周りの人たちに、平和ではなく、不正をしてしまうのです。
- 私たちが気づかなければならない大事なことがあります。ほんとうの意味で愛するということは、傷つくということなのです。事実、他の人たちを傷つけないで彼らに善いことをするためには、それが私から何かを奪うことであっても、喜んで与えなくてはならないのです。
- 聖ヨハネはこう言っています「神を愛していると言いながら、見たり触れたりすることのできる人、ましてや一緒に住んでいる周りの人を愛せないで、どうして見えない神を愛せると言うのか?」「あなたは嘘つきだ」と。読むのがこわくなるような言葉の一つ、けれども、それは実にほんとうのことなのです。
- 私は、神が私たちを通して、この世界を愛してくださっていると信じています。あなたを通して、そして私を通して、です。
- 神、私自身、私の隣人たち。もし私が人々をゆるすなら、私はこの祈り(主の祈り)を唱えることができます。とても簡単なことなのです。それなのに私たちは、たくさんの余計なもので、自分たちの人生を、とても複雑なものにしてしまっているのです。
- 「主の祈り」は簡潔ですが、とても美しいものです。この祈りは、ほんとうに私にぴったりくるでしょうか?私は、汚れのない開かれた心で、この祈りを唱えることができるでしょうか?この祈りにはすべてがあります。
- 「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず悪からお救いください。」
- どうしたら祈れるようになるのでしょうか?弟子たちがイエス様にこう尋ねた時、イエス様はなんのやり方も技術もお教えになりませんでした。ただ、自分たちの愛する父親にするのと同じように、神さまに語りかけなさいとおっしゃっています。この祈りを唱え、この祈りを実行していきましょう。主の祈り。
- 主イエスよ、どうかわたしたちに悟らせてください。真に満ちあふれた生活への道は、日々死ぬことのうちにのみあることを。わたし自身が日々死ぬことのうちに、自己中心的な欲望が日々死ぬことのうちに。なぜなら、あなたとともに死ぬことによって、わたしたちは、あなたとともによみがえるからです。
- 祈りは喜びです。祈りは愛です。祈りは平和です。これは、ことばでは説明できません。体験する以外に道はありません。これは、けっして不可能なことではありません。神は求める者には与えられるのです。
- わたしたちは神のおられる天国を、いつも待ち望んでいます。しかし同時に、今このときに神と共にいる幸せにも招かれています。この「今このときに神と共にいる幸せ」とは、神が愛するように愛し、神が助けるように助け、神が与えるように与え、神が仕えるように仕え、神が救うように救うことなのです。
- 苦しみは、それ自体では苦しみにすぎません。しかし、キリストのご受難とともにある苦しみは、ひとつのすばらしいたまものです。そうです、それはたまものであり、神の愛のしるしです。
- 世界を征服するために、爆弾や銃を用いることを、やめなければなりません。必要なのは愛と同情の心です。平和は、ほほえみから始まります。
- 神と人に感謝の気持ちを表す最高の方法は、すべてを喜んで受け取るということです。喜びは、愛に燃える心から自然に生まれるのです。
- わたしたちへの神の愛を理解するためには、祈りが不可欠です。もし、真剣に祈りについて考え、祈りたいと望むならば、今すぐ祈り始めなければなりません。それは祈りへのほんの第一歩ですが、今、決心して、その第一歩を踏み出すことなしに、その最終地」-神の現存-に到達することはできないのです。
- 忘れないでください、あなたは神の手の中にいるということを。そして、あなたが苦悩の中でもっとも苦しんでいるまさにそのとき、神のまなざしがあなたに注がれているということを。あなたは、神にとってかけがえのない者だということを。
- 神は、わたしを愛しておられます。どのようにわたしを愛しておられるのでしょうか。「母親が自分の産んだ子を忘れようとも、わたしがあなたを忘れることはけっしてない。わたしはあなたをわたしの手のひらの中に包む。
- 例外なく、すべての子どもは、そしてあなたもわたしも、偉大なことのために創造されたのです。それは、愛し、愛されるということ。
- この観想によって、わたしたちは二十四時間、飢える人の中で、裸の人の中で、家のない人の中で、望まれず、愛されず、世話されることのない人の中で、キリストと共にいるのです。イエスは言っておられます。「わたしの兄弟のもっとも小さい者たちにしたのは、すなわちわたしにしたのである」。
- 祈りとは、キリストにわたし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何者でもありません。そしてこのことが、わたしたちを、この世のただ中において観想的にさせるのです。
- 自分の内にキリストを住まわせるということは、とても大切なことです。そうすれば、どこに行こうとも、あなたは現存されるキリストと共にいるのです。
- わたしの中でキリストは祈ります。わたしの中でキリストは働きます。わたしの中でキリストは考えます。わたしの目を通してキリストは見つめます。わたしのことばを通してキリストは語ります。わたしの手でキリストは働きます。わたしの足でキリストは歩かれます。わたしの心でキリストは愛します。
- もし、わたしたちの心が澄みわたり、そこにイエスの命があふれ、そこが生ける神の器となるならば、イエスとわたしは一つです。聖パウロは言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。
- イエスの祈りにまさるものはありません。そのイエスが、どのように祈ったらいいのかわからないわたしたちのために、わたしたちの内に聖霊を送り、そこで祈ってくださるのです。
- だから、次のように繰り返し言うことが大切です。「わたしのうちにおられるイエスよ、あなたの、わたしへの誠実な愛を信じます」と。もう何も差し出すものがないとき、この「何もない」ということをイエスに差し出せばいいのです。そして、内におられるイエスに祈っていただくのです。
- 祈れないときもあります。その時は単純になればいいのです。わたしの心の内におられるキリストに祈っていただくのです。キリストが御父に語りかける、その祈りに心の沈黙の中でまかせきるのです。わたしが語ることができないそのときキリストが語ります。わたしが祈れないそのときキリストが祈ります。
- あなたの心を変えること、心を変えないかぎり回心はありえない。場所を変えても、それは答えにならない。仕事をかえても、それは答えにならない。答えはどこにあるのか。それは心を変えること。いかに心を変えるのか。祈る心によって。
- そのとき、賞賛も恥辱も関係ありません。自分のほんとうの姿を知っているのですから。あなたが侮辱されても、落胆することはありません。人があなたを聖人と呼んでも、うぬぼれることはないのです。ほんとうに自分を知る時、わたしたちは、ただひざまずくのです。
- 聖パウロは尋ねています。わたしたちの持っているもので、与られたもの以外のものがあるだろうかと。もし、すべてのものが与られたものならば、自分の所有だと主張する意味があるでしょうか。もし、このことがほんとうにわかるならば、わたしたちは決して傲慢になることがないのです。
- 神についての知識は愛をもたらし、自分についての知識は打ち砕かれた謙遜な心をもたらします。謙遜な心、それはわたしたちの真実を示しています。
- そこで起こることはすべて神からのものであると受諾できますように。故意に、あるいは悪いことだと知りながら過ちを犯すことがないようにと固く決心できますように。もし過ちを犯してしまったら、それに打ち砕かれた心で向かい合い、もう一度やり直すことができますように。
- あらゆることにおいて神を喜ばそうとし、神の求めることは何ひとつ拒絶しないことによって、神の愛がわたしたちの中でますます豊かになることに絶えず心を傾けることができますように。
- どうか、神の愛が今こそ心の全体を完全に占めるように。神の愛が、わたしたちの心にとって第二の天性になるように。神の愛に反するものを前にして、わたしたちの心が痛むように。
- イエス・キリストは、いつも目を覚まして祈るようにと、わたしたちにさとされました。祈りに飽きてはならないというのです。聖パウロも言います、絶えず祈りなさいと。神は、この絶えず祈り続ける心にわたしたちを招いておられます。
- あなたの奉仕の場で、ほほえみながら喜んで貧しい人たちを受け入れることが難しいと感じるなら、いつでも、こう思いなさい。神と人々にあなたが感謝を表す最善の方法は、すべてのことを喜んで受け入れるということなのだ、と。
- いやいやながらとか義務と感じながらではなく、ひとりひとり、自分自身で決心した時のように、喜んで与えなくてはなりません。神は喜んで与える人を愛しておられるからです。神は、喜んで与える人に多くの恵みをお与えになります。
- 真の愛はいつも傷つきます。それでこそ私たちは、ほんとうに愛することができるのです。”愛”という言葉は誤解され、間違って使われています。
- 真の愛はいつも傷つきます。人を愛することや人と別れることは痛みを伴ないます。あなたは彼らのために死ななければならないかもしれません。人々は結婚する時、お互いのためにすべてを捨てます。子どもを産む時、母親は苦しみます。それでこそ私たちは、本当に愛することができるのです。
- 特に疲れていたり、イライラしていたり、機嫌が悪かったりする時は、なおさらです。だれにでもそんな時があります。そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が私たちのところに来ておられるのです。
- 自分の家庭の外で人々にほほえむことは、たやすいことです。あまりよく知らない人をお世話することは、実はとても易しいことなのです。あなたの家の中で毎日会っている家族を、おもいやりをもって、優しく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。
- 私たちの共労者たちの中に、小さな「リスニング・グループ」があります。彼らはお年寄りを訪ね、一緒に座って、お年寄りにお話をしてもらうのです。彼らは話しを聞いてくれる人がいることを喜んでいます。だれも聞いてくれる人がいないとき、聞くことはただそれだけで、とてもすばらしいことなのです。
- 神が、私たちの行く道に、必ず幾人かの魂を置かれるということは、その人たちのために何かしてほしいと思っておられるサインです。それはチャンスなどというものではありません。神のご計画なのです。私たちは、その人たちを助ける心によって神のご計画に結ばれているのです。
- 神は決してご自分を私たちに押しつけたりなさいません。あなた方は、神が与えてくださった愛で、この世界を満たしているのです。
- 与えることが何もない時は、神に、その”無そのもの”を差し出しましょう。できる限り自分が空っぽでいられるように。そうすれば、神が私たちを満たしてくださいます。たとえ神様でも、もうすでにいっぱいになっているものを満たすことはできません。
- 謙虚であるということは、常に神の偉大さと栄光の光を放っているということです。謙虚であることを通して愛することができる人に成長するのです。謙虚さは、聖性の始まりです。
- 学ぶチャンスを逃さないようにしましょう。うぬぼれたり、ぶっきらぼうだったり、気分屋だったり、自己中心だったり、こんな自分でいることは、いともたやすいことです。私たちは、もっと素晴らしいことのために創られたのです。なぜ心の美しさをだめにしてしまうようなことに自分を陥れるのでしょうか
- 聖母マリアに、御子がそうであったように、私たちの心を”柔和で謙遜”にしてくださるよう、お願いしましょう。私たちは、人からの屈辱を明るく受け止めることを通して、謙虚さを学ぶのです。
- けれど、もっとおおきな苦しみは、だれも側にいてくれない、孤独で愛されていないことなのです。だれからも愛されないこと、これこそが、人類が経験することの中で最悪の病気だということを、私はますます確信するようになりました。
- この世界には、肉体的、物質的、そして精神的な多くの苦しみがあります。苦しみのあるものについては、他人の欲深さを攻めることができるでしょう。肉体的・物質的な苦しみは、飢えや、帰る家がないこと、さまざまな病気からくる苦しみです。
- 過ちが生活の中に入り込んでくると、それは神と私たちの間で、本人の内部の障害となります。過ちは、私たちを囚われた者とすることにほかならないのです。
- 神は私たちの中に住んでおられます。あなたが汚れなく、聖い心でいるかぎり、あなたがどこにいるかは関係ないのです。汚れなく聖い心とは、心が開かれている状態です。開かれた状態とは、完全な自由、つまりどんな妨げや障害にもかかわらず、神を愛することを可能にしてくれる無私の状態です。
- 病気の人や体の不自由な人は、体を使って働くということでは何も分かち合うことはできません。そこでこういう人たちは、私たちの会のシスターやブラザーのひとりを選んで、シスターやブラザーが行うどんな働きにおいても、自分の苦しみをささげながら完全につながりをもって貢献しているのです。
- 病気のあなたはなんと愛しい人でしょうあなたは私にとって二重に大切な人です。あなたがキリストを現しているのなら、あなたのお世話をさせていただけることは、私にとって、なんという特権なのでしょう。
- 主よ、正しく見る信仰をお与えくださいそうすれば、私の働きは決して単調なものにはならないでしょう。貧しく苦しむ人々の気まぐれを優しく受け止め、願いをかなえてあげることに喜びを見いだすでしょう。
- 女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。
- 神に私たちの愛を表す時に、自分がみすぼらしくちっぽけで、無力であることを恐れるのはやめましょう。病気の人にあげる一杯の水、赤ちゃんに食べさせ、知的障害を持つ子どもに教えること、自分の家族にほほえみかけるような喜び、これらすべてのことが、今日の世界における神の愛なのです。
- 私たちは、ほんとうは神の愛の共労者なのです。神の愛の運び手なのです。特に人々が、神は”いた”としてしまうこんな時代には、あなたや私が、私たちの愛する心、生活の純粋さ、私たちの深い思いやりの心を通して、世界に証明するのです。神は”今もいらっしゃる”ということを。
- あなたの子どもたちの心に、家庭に対する愛の心を植えましょう。子どもたちが、たくさんの時間を家族と一緒に過ごすようにしましょう。もし人々がほんとうに家庭を愛するならば、私たち人間は、多くの過ちを避けることができるでしょう。
- 人々への思いやりの心をもちましょう。私たちが心の底から思いやりを感じるためには、祈りが必要です。特に、貧しい人たちを優しく愛しましょう。私たちは貧しい人たちにたくさんのことをしている、と勘違いしがちです。しかし、ほんとうはそうではなく私たちを豊かにしてくれるのは彼らの方なのです。
- 学生の皆さんへ。私は祈ります。たった今卒業された、ここにおられるすべての若い人たちが卒業証書を誇りとして生きていくのではなく、どうか、愛する心と平安と喜びを人々にもたらしますように。神からいただいた賜物を人々に与えることができますように。分かち合うためにいただいているのですから。
- わたしたちは、あらゆる機会を通して、祈りと犠牲と愛のうちに聖性へと招かれているのです。キリストに似た者として、さらに成長するようにと、たがいに祈ろうではありませんか。
- 聖性はどこから始まるのでしょうか。自分自身の心の中からです。だからこそ、清い心を保つために、絶え間ない祈りが必要なのです。この清い心に生ける神が住まわれるのですから。
「主よ、どうか私に、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、人々にもたらすことを求めさせてください。なぜなら、自分を忘れることによって自分を見いだし、ゆるすことによってゆるされ、死ぬことによって永遠の命に生きるのですから。」 - 「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみのあるところに愛を。不当な扱いのあるところにゆるしを。分裂のあるところに和解を。誤りのあるところに真実を。疑いのあるところに信頼を。絶望のあるところに希望を。闇のあるところに光を。悲しみのあるところに喜びを。もたらせますように。
- アッシジのフランシスコの「平和の祈り」を唱えましょう。そしてこの祈りが私たち自身のものとなりますように。
- 平和を人々に与えるためには、次のことを学び、理解しなくてはなりません。それは、私たちの心が神で満たされていない限り、他の人に愛や平和を与えることはできず、この世界に真の平和はないだろうということです。
- すべての愛の働きは平和の働きです。私たちは平和をもたらすために爆弾や銃を必要としません。ただ、愛とあわれみの心が必要なのです。けれど、もうひとつ必要なものがあります。それは深い深い神とのつながり、祈りです。
- 神がお考えになります。神がお書きになります。私というエンピツは、それに対して何もすることはありません。エンピツは、ただ使っていただくことを許されているだけなのですから。
- 私は、自分が特別な素質を持っているとは思いません。私はこの仕事に対して何も要求していません。これは神のみ業なのです。私はただ神の手の中の小さなエンピツに過ぎません。ほんとうに、ただそれだけです。
- ガンジーは言っています。「貧しい人たちに奉仕する者は、神に奉仕する者である」。彼の非暴力主義は、私たちの理解では、銃や爆弾などの武器を使わないというだけではありません。まず私たち自身の家に、愛と平和とあわれみが必要だと言っています。
- ガンジーは、神が彼を愛したように人々を愛しました。ガンジーについての最も美しいことのひとつで私の心を打ったのは、彼の非暴力と、貧しい人たちへの奉仕を、神への愛の奉仕と同等にみなしたことです。
- 神は全く純粋です。何もその純粋さを汚すことはできません。私は神が憎むことができると思いません。神は憎みません。神は愛します。神は愛だからです。けれど私たちの不純さは、神を知る妨げとなるのです。
- 遠いところにイエス様を探すのはおやめなさい。イエス様は、そこにはおられません。イエス様はあなたのそばに、あなたと共におられるのです。
- 飢える心配をする必要のない国もあります。けれど人々は、ひどい孤独とひどい絶望、ひどい恐怖心にさいなまれています。彼らは、だれからも求められていないという拒絶する悲しみと、救いようもなく、希望のかけらもない気持ちを感じているのです。こういう人たちは、ほほえむことすら忘れています。
- 今日の人々は、愛に飢えています。愛だけが、孤独とひどい貧困に対する唯一の答えとなるのです。
- あなたが愛することを学ぶならば、あなたは聖性を学ぶのです。そして本当に愛することができるようになるために、あなたは祈らなくてはなりません。聖性に向かうということは、神と、わたし自身にかかっているのです。
- 聖性は、神のご意志を受け入れることです。聖性は、限られた人たちの特権ではないのです。
- あらゆる困難や障害にもかかわらず、神に信頼しましょう。神は決してあなたを裏切りません。ある願いをかなえてくださらない時は、神がそのことをお望みではないというしるしです。もし神があなたにそれをしてほしいとお望みなら、神はその手段を与えてくださるでしょう。ですから何も心配ないのです。
- 私は主を、み言葉のままに受けとめています。信仰は神の贈り物です。信仰なしには、人生の意味はないでしょう。私たちの働きが実り多く美しいものであるためには、それらの信仰の上に築かれている必要があるのです。愛と信仰は共にあるべきものです。それらは互いに完成し合うのです。
- 親御さん方へ(3)両親の別れは、幼児期や思春期の子どもたちの純真な無邪気さに、傷をつけてしまうでしょう。その結果が、疑いと幻滅です。彼らはこのように感じています。生きていいる目的は一体なんだって言うんだ?人生はまだ何か意味のあることだって言うのかい?
- 親御さん方へ、たとえ若者たちが霊的な生活に渇いているとしても、彼らのほとんどは、猜疑心にさいなまれているのです。彼らは、神に自分たちの信頼を置くことができないし、また、信じることもできないでいるのです。なぜなら、信用してきた人たちの生き方を信頼できなくなってしまったからです。
- 親御さん方へ、私たちの世界の広大な領域が霊的な砂漠に覆われています。人として、自暴自棄になっている若者を、いたるところで見るでしょう。これは、彼らの心の奥深いところまで、影響を与えてしまうほどの、壊れた人間関係の結果です。
- 言葉の暴力はとても恐ろしいものです。どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、神の恵み以外には、いやすことができません。
- 思いやりのある行為への最も確かな近道は、言葉を使うことです。ただし、他人への良いことのために使いましょう。もしあなたが、人のことを良く考えるならば、人についても良く話すようになるでしょう。
- だれかを傷つけたとわかったら、まず先に謝る人になりましょう。私たちにはゆるし合うことが必要だとわからなければ、人をゆるすことはできません。この、ゆるすことこそが、愛の始まりなのです。
- 神の愛が、罪の不幸や、世界を分断している恐怖・葛藤・緊張のすべてよりも、無限に力があり、神の慈しみであることを、私たちは本当に信じているでしょうか?もちろん、人間の手や心が作り上げた最も強力な爆弾や銃などとは、比べものにもならないことを。
- 自分が行うすべてのことを、神をお喜ばせすることに集中し、自分自身を含めたすべてのことを忘れることのできる人です。快活さは、犠牲を捧げる生活、神との絶え間ない一致を、しばしば覆い隠すマントです。
- 心から喜んで与える人は、人々に、素晴らしい恵みを与えることのできる人です。快活さは、寛容で自分を抑えることができる人の特徴です。
- 仕事の最中でも、祈ることはできます。仕事は祈りを妨げないし、祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。ただほんの少しだけ心を神に向けるだけでよいのです。愛しています、お任せします、信じています、神よ、私は今あなたが必要です。こんな感じでいいのです。これはすばらしい祈りです。
- 愛の本当の意味は、神との結びつきからでなければ、わかることができません。その神との結びつきから、家族への愛、あなたの周りの人たちへの愛、貧しい人たちへの愛、これらが自然に実を結ぶのです。
- 神はあなたを愛しておられます。神があなたを愛してくださるように、私たちも互いに愛し合いましょう。
- 愛とは分かち合うこと、私たちにある最善のものを与えることです。私たちは、神の愛の運び手なのです。そしてあなたが誰であれ、あなたも神の愛の運び手になれるのです。
- 主が来て、しばしの休憩をとることができる…わたしたちは、そのようなナザレの家をここにつくりたいのです。イエスはわたしたちの中の一人としてとどまるために、貧しくなくてはいけなかったのです。
- 聖母にとって天使のお告げは、イエスが彼女の人生の中に入って来られた時でした。----それは、マリアにとって「初聖体」の日だったのです。
- 「わたし(イエス)は、あなたが食べなくてはならないパン、飲まなくてはならない血、語らなくてはならない真実、灯さなくてはならない光、与えなくてはならない平和である。」イエスは、わたしのすべてなのです。
- イエスははっきりと言われました。わたしは、あなたが愛すべき愛、生きるべきいのち、分け与えるべき喜びである。
- イエス以外のだれもこのような仕方で自分自身を与えることはできません。そして主はご聖体のうちにいつでもいてくださるのです。わたしたちに求められているのは、それに気づくことだけです。
- 主のおられるところには…喜びがあり、平和があり、愛があります。わたしたちのいのちが愛と喜びに満ちたものとなるために、イエスは御自分をいのちの糧とされたのです。
- 「もし、人間的な名誉のためにこの仕事をするのなら、せいぜい一年くらいしか続けられはしません。イエスのためにするからこそ、続けられるのです。」
- 「あなたの子供に、夫に、妻に何かよい言葉をかけることから始めなさい。あなたの町で、会社で、学校で、困っている人を助けることから始めなさい。それが何であれ、あなたが今していることを神のために素晴らしく行うことから始めなさい。」
- 「さあ、ひとつひとつ小さなことから始めましょう。」
- 「貧しい人のさげすまれた姿の中にいるイエスに奉仕しなさい。」
- 「傷つくまで与えましょう」
- 「何か美しいことを神のために」
- 「イエスのために、イエスに向かって、イエスとともにそれを行うのです。」
- マザー・テレサはこんな夢を抱いている---すべての人が生涯を終えるときに、「愛されている」ことに気づくように。この夢を現実のものとするために、自分の一生を捧げたのです。
- わたしたちの愛に対する主の飢えを、わたしたちがいやしてさしあげられるように。それは、貧しい人々へのわたしたちの奉仕をとおして可能になるのです。わたしたちは主の飢えを満たすのです。
- イエスのことばを確実に理解することができるために、イエスへの渇きをいやすことができるために、イエスへの愛を満たすことができるために、イエスは御自分をパンとなさったのです。しかし、主はそうまでなされても、満足されません。主ご自身が飢える者となられたのです。
- イエスはいのちの糧として、ひときれのパンよりもご自分を小さくすることがおできになったでしょうか?もっと弱く、もっと無力なものになれたでしょうか?ハンセン病の人よりもむごい姿になれたでしょうか?そう、現に主はそのようになられたのです。わたしたちはそれを知るべきです。
- 臨終の男の人がわたしたちのシスターにこう言いました。「いよいよ神の家に帰ります」彼はだれのことも恨みに思ってはいませんでした。彼は苦しみについては一言も言わず、ただ「神の国に帰ります」とだけ。そして目を閉じ、神の家に帰ったのでした。実に簡素で、美しい最期でした。
- 絶え間なく苦しむこの気高い人々がいなければ、この世界はどうのようになってしまうのでしょうか。これほどの威厳と愛をもって苦しむこの人々がいなければ。
- (続)彼女はわたしの手を握りしめてこう言いました。「マザー・テレサ、どうぞわたしにくちづけするのをやめてくださるようイエスに願ってください」それはとても美しい態度でした。彼女は理解していたのです。苦しみは神からの贈り物なのです。苦しみを罰と受け取ってはなりません。
- わたしは癌におかされた女性に会う機会がありました。彼女の苦しみは大変なものでした。わたしは彼女に話しかけました。「今、あなたは十字架にかけられたイエスに近づいているのよ。その苦しみは主のくちづけなの」(続)
- 「主よ、あなたを愛します。主よ、お許しください。主よ、あなたを信じます。主よ、あなたに頼ります。あなたがわたしたちを愛してくださるように、わたしたちも互いに愛し合えるようお助けください」と祈ればいいのです。祈りを通じて学びあうとき、そこからあなたの力が生まれてきます。
- 家族がともに祈るならば、家庭の一致は保てます。その家族は互いに愛し合うでしょう。五分間、一緒に祈るだけでいいのです。「天にましますわれらの父よ」と始めるだけでいいのです。
- 生きているのはわたしたちではなく、わたしたちのうちに生きるべきお方が生きておられるのです。わたしたちの中でイエスにご自分の生き方を生きていただくこと、それが祈りです。イエスにそうしていただけばいただくほど、わたしたちはキリストに似た者として成長していくのです。
- 祈るためには清いこころが必要です。清いこころで神を見ることができます。イエスを愛し、イエスの生き方を生きるには、清いこころが必要です。ラザロの生き方、マリアの生き方、ご聖体の生き方、ご受難の生き方、主がわたしたちに用意してくださっている生き方を。
- 祈りは聖書から始まります…。話しかける神に耳を傾けるのです。神のことばでいっぱいになったこころで神にお話するのです。神はじっと聞いてくださいます。ともに聴きあい、ともに語り合う、これが本当の祈りです。
- 祈りは沈黙から始まります。神は静かなこころに語りかけます。わたしたちは満たされたこころで神に話し始めるのです。神はじっと聞いてくださいます。
- 祈りは口で説明できるものではありません。祈りは体験しなければならないのです。それは不可能なことではありません。神は求める者にそれを与えてくださいます。「求めよ、そうすれば与えられる」父親は、子供たちに何を与えればよいかを知っているではありませんか。天の父なら
- 祈りは喜び、祈りは愛、祈りは平和。
- こころを新たにする一番確かな方法は、ゆるしの秘跡を受け、ご聖体を拝領して、主と一致することです。そのとき、わたしは平和で満たされます。
- こころを新たにしなさい…。こころを新たにしなければ、わたしたちは回心することができないのです。場所を変えても、仕事を変えても、それだけではわたしたちは回心できません。ただこころを新たにするしかないのです。
その時、ヒンズー教徒はより良いヒンズー教徒に、イスラム教徒はより良いイスラム教徒に、キリスト教徒はより良いキリスト教徒になれるのです。 - キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、信じている人も信じていない人も、誰でも共に愛をもって働くことができます。誰でも共に愛することの喜びを分かち合い、神がともにおられることに気づくことができます。その時…
- 信仰は神からの贈り物です。しかし、神は信仰を強要されません。
- あなたを形造られた愛の手が、わたしをも造ってくださったのです。もしその方があなたの「父」であるなら、わたしの「父」でもあるはずです。わたしたちは同じ家族の一員です。ヒンズー教も、イスラム教徒もすべての人は兄弟姉妹なのです。彼らも神の子供なのです。
- 大きなことをできる人はたくさんいますが、小さなことをしようとする人はごくわずかしかいません。
- 私の行いは大河の一滴にすぎない。でも、何もしなければその一滴すら生まれないのです。
- 私達はこの世では大きいことはできません。小さなことを大きな愛でするだけです。
- 大切なのはどれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。
- いまの世の中、人間が人間を見捨てているのよね。
- 私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは、一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
- 愛の反対は、憎しみではなく無関心です。
- 豊かさを分かち合ってもらいたいのではありません。みずからが痛みを感じるまで、人々に施しを続けてほしいのです。